春の海峡
■所用あって、愛車のサニーバンを走らせて東北に行ってきました。今年は例年になく暖かく雪解けも早い北海道。いつもは退屈なばかりの函館までの国道ドライブも、うららかな陽射しを浴びて走るとなかなか気持ちの良いものでした。青い空を反射して輝く内浦湾もまさしく「のたりのたり」。国道5号線、オシャマンベの直線路では居眠り注意のカンバンが、寝ぼけマナコにぼんやり映ります。
■函館港から青森港までのフェリーは、ツールドニッポンでも利用される航路です。運送業の方々は別とさせていただいて、フェリーはまあ割合多く利用するほうだと思います。特に、関西、西日本、四国に行くときは日本海の長距離フェリーを使いますが、それよりもやはり、海峡を渡るこの短い船旅のほうが「フェリーボート=渡し舟」らしい感じがします。
■岸から岸へ。機能としては橋と同じようなものなのですが、それよりもずっと「旅」らしい感じがするのはなぜでしょうか。それはやはり海(あるいは河川)を挟んだ両岸が、橋を必要とするほどには密な関係を持っていない、直接の交流を持っていないということになるのでしょうか。あるいは物理的な障害もあるでしょう。いずれにしろ、そこにはなんらかの隔絶があるわけで、フェリーボートは隔絶された二つの世界をゆるやかにつなぐ装置だということです。
■狭い海峡を渡る船のほうが、ずっとフェリーボートらしいと思うのは、一方で離れていく岸を見ながらにして、やがて取り付くはずの対岸が遠望できるからです。そこには二つの世界のオーバーラップ(重複)があります。実はそのオーバーラップする感覚こそが旅というものなのかもしれない。人間が生まれてから、死んでしまうまでいつも過去の記憶を薄れさせて行きながら、新しいものに出会っていくように、旅をする人間というのは、いつも古い記憶とまだ見ぬ何かに挟まれて存在しているのかなぁ。
■小樽〜舞鶴航路のように、いったん360度が水平線という空間に飛び出てしまう船旅は、成層圏を行く航空機の旅と同じようなもので、人間的な旅の時間軸からは逸脱しているのかもしれない。こうした海峡を渡るフェリーに旅を感じるというのは、誰にとっても自然なことなのかもしれない。などと、やはり柔らかい春の陽射しを浴びながら、フェリーの甲板でそんなことを考えたりしました。
■紺青の海の上を静かに行く、この船の一番上の甲板に立ってみたいと思い、白いペンキの手すりを頼りながら、鉄の階段を上がっていきました。二つ、三つと階段を上がると、レーダーのアンテナが回転している、操舵室の上まで簡単に上がることができました。眼下には、白波を切る船首。正面には遠く八甲田の山並み。まるで船長にでもなったような気分「こんなに気持ちがいいのに、なんでみんなここにこないのだろう」と思っていると「あ〜、すいません。そこは立ち入り禁止です」と、若い船員の声。そうか、そうだったのか、すいません。すぐに下ります、とすまながっていると、若い船員。「どうです。しかし、いい眺めでしょう。」と言葉をつないでくれました。こんなふうに気の利いたことを言えるのは、海を仕事場とする人のプライドなのでしょうか、それとも春の陽射しが暖かいからなのか、あるいは日本人も少しは変わってきたということなのか。きっとそれらすべてが理由なのだと、思いながら、今度は船室で居眠りすることにしました。
写真 / 八甲田の山道はこんな雪でした!!
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