Organisation Voice 2015/01

 

 

2015/01/26 (月曜日)

「うなぎやか呉服屋をおやりなさい。」

いきなりなんというタイトル!?と思うでしょ。

でもその「うなぎやをやんなさい」というのはこの数年のボクの常套句。
川べりの少し高台に、鄙びた「うなぎや」があれば、ぼくは通う。

別にウナギの稚魚が居なくなって高騰してるとか、絶滅危惧種だとかってテレビでやってるのを見るたびに「ウナギ喰いてー」となってるから?ということではないんです。
日本の豊かで、消してはならない食文化です。

呉服屋のあととり息子も、いまでは東京の立派な大学に行ってしまうと「もう田舎に帰って家業は継がない。」となることでしょう。
それはそうでしょう、都会には?夢とチャンスがあふれてるように見えるからです。

いずれにしても地方の商店街の廃退は、多くは昭和を生きた商店主らが、少し豊かだったので競ってあととりに良い教育をして「田舎に帰るのが馬鹿らしい」としたためだ、という説もありますが、紛れもない事実です。

しかしウナギどころか日本の和服文化は、そう捨てたものではないと、成人式辺りにはそう思います。
無くなりかけたものの魅力は、なぜにこれほどまでに怪しくも魅力的なのでしょう。
無くなろうとするものほどに文化性がいや増すように思うのもボクだけでしょうか?タオルで有名な今治市には、櫻井漆器という伝統工芸があります。最近の新聞によると(しまなみサイクリングの影響というのが残念なような気もしますが)
蒔絵の自転車が出来たそうです。ボクは思わず快哉をあげました。
「これだよ。」と。

最近さまざまなデザインをしながら、考えるに現代的な意匠はまだ数十年か百年か、人の目にさらされ続けて磨かれていかなければならないなあ。。とそう思います。古いものが良いだなんて全然思ってません。古かろうと新しかろうと良いものは良いのですが、なんせ「賞味期限」の長短はさすがに問わなければならないでしょう。

とにもかくにも、心を込めてじっくりと作り込んだものは長く鈍い輝きを放ちます。これです。ボクタチが目指すものは。

2015/01/16 (金曜日)

「勝利の女神に愛される方法」

昨日のOVに書いた「勝利の女神」のことを、
あれからずっと考えていた。
写真のように古来から「女神」の存在は知られる。
昨年の大河ドラマ官兵衛で
「わたしは戦で、一度も破れなかった。」
と述懐する場面があった。
要は「百戦して百戦に危うからず。」ということだ。
官兵衛は、どのように勝利の女神に愛されたんだろうか。

どのような競技であれビジネスであれ、頂点を極めるのは至難だと思う。しかしこの至難を成し遂げた人(チーム)と、自分の違いを考えるのも一つの方法だろうか。そして、勝てない理由を考えてみることにする。

まず女神は自惚れたものが嫌いなようだ。
「どんなもんじゃい!」とか叫ぶ、競技者はやがて敗退する。
絶対!とかという言葉も女神は嫌いだ。
「ここまでやったのだから勝つのが当たり前」
と考えてるうちは地方大会優勝程度だ。
つまり絶対的な努力による自信は、女神の好むところではない。
努力感じさせた時点で女神は鼻をつまむ。
「クサッ」
てな感じかもしれない。

上手く行かないことを受け入れることのできる者に女神は興味がる。
これを端的に言えば
「謙虚であること。」
になるがそれも微妙には違うような気がする。
いま日本中のアスリートが口を揃える「感謝」とは、勝利の女神に好かれたいという研究結果のようなものかもしれない。。
実は女神はそれも好きではない。
「応援していただいたファンの皆さんの後押しで勝利することが出来ました。」
と語る勝利者は、本当にそう思ってるのか??

そう思ってるものは勝ち、そうは思っていなくてもそうい言う者は最後には負ける。
女神がことさら愛する者は、実は天真爛漫で、でも自信が無くて、少し泣き虫で上手く行ったときにそれは自分の努力ではなく温かく支えてくれたチームや関係者や家族や地域のお蔭だ!と、言われなくてもそう感じることが自然な、そんな男の子(いや女の子)なのだ。

前述の官兵衛、そして孫子の兵法にあるように「敵を良く知ること」そしてその強みも弱みも知ったうえで、相手を尊敬し評価できる者。そして謙虚で、その戦いを自分一人の闘いではないと真に思える者。
「絶対勝つ!」とか「絶対負けられない戦い」とかって言った時点で、絶対の勝利は捨ててしまってるようなものだ。

そうして勝利した者は変わる。女神が気が変わりやすいのではなく、勝利は人を変える。勝利ごときで人間が変わるものを女神は実は真の勝利者とは認めないのだ。
女神は「なんだ、間違えたわ」とか言いながら、次の愛すべき者の登場を待つのだ。
だからチャンスは、誰にも広げられているのだ。



2015/01/15 (木曜日)

「ダカールとは、なんだろう。〜実は上手く行かないことが多いということ。」

いま南米ではダカールの熱い闘いが終盤戦だ。
さまざまな思いが、さまざまなカタチで幕を閉じる。
それはダカールに限ったことじゃないけど。
年末年始に繰り広げられた、あまたのスポーツ。
頂点に立つのは、わずかに1チームのみだ。
その針の穴ほどもない歓喜の経験をする者は、そのスポーツに恐るべき情熱を費やした者の、本当に限られたわずかだ。数万分の一か、それ以上の確率だろうと思う。

常勝のシリル・デプレもペタランセルも、新しいプジョーで苦しんでる。
あれほどの経験をもってしても、上手く行かない。
そう、スポーツの現場はダカールに限らず「上手く行かないことの経験の場」だ。
上手く行かないことは、良いことなのだ。
人生なんて、そう上手く行くことは無い。
確率的に見て、そうだということが判る。

少しむかしばなし。
パリダカの時代。
GPSのない時代のことだ。
つまり、特に上手く行かない時代のことだ。
主催するティエリー・サビーネは「冒険の扉を指し示すのみだ。望むなら連れて行こう。」そう言った。

そのティエリーの死後2年。88年の第10回大会がそのピークだったろう。100名にも及ぶ日本人参加者と、大勢のプレスがいた。ボクもその年に初出場を果たした。
ベルサイユ宮殿のポディウムは、幾万の観衆で埋め尽くされテェリーの好きだった?サーチライトが夜空を切り裂いていた。フランス語で選手を紹介する絶叫が、まるでサーチライトのビームに乗せられて世界中に響き渡っていた。
そこには熱狂があり興奮があったが、参加者の胸の奥には黒々とした不安もあった。まあ、それが冒険というものの特性だ。

出場していたとはいえボクタチはその様子をベルサイユの上手く予約のとれたホテルの部屋のテレビで眺めていた。歩けばパルクフェルメに3分と掛からない。
いずれにしてもボクのスタート時間はまだまだずっと先のことだ。
それは別世界の出来事を、遠くテレビ中継を見るようだったが音声はテレビの中からと窓の外から微妙にズレて耳に届いていた。

心地よさと、不安と。その数時間は、得難い体験だった。それ以降の大会でももちろん緊張はしたものの、この1988年1月1日の未明から続くスタートの興奮は、ボクの人生の中でも特別なものとなった。

しかし、あれはいったいなんだったのだろう。
スタート台に着くまでの1年間の熱狂の日々は。

あれから随分と歳月が流れた。
ボクは1992年のパリ−ルカップ、同年のパリ−北京で、一度マシンを降りてモンゴルのゴビ砂漠で、1988年の熱狂を糧にラリーの開催に取り組んだ。
ラリーモンゴリアだ。
確か2年目の1996年。
一人の少年がラリーに参加したいと、関係者を通じて話があった。少年の名はボルドバートル17歳。レギュレーションの出場資格は18歳以上だったので随分と議論が交わされた。ボクは終始「NO」を突き付けていたのだが。

さてそのラリーモンゴリアでは3人の日本人の総合優勝者名が刻まれている。
それは、博田 巌、三橋 淳、池町 佳生。。
同時代に生まれた、ライバルというか数奇な巡り合わせに生きた男の子3人だ。

やがて彼らは、ダカールへと巣立った。
彼等は初出場の時点で、その力を発揮した。
過去の記録を軽く塗り替え、ヨーロッパ勢に対して非力な体制ながら3名が3名とも互角以上に戦いあった。

ひとつ不思議なのは、同時代に生きながら3人とも、いずれも同じ大会に出場していないのである。モンゴルでも、パリダカでもバイク時代には一戦も交えていないのではなかろうか。

今モンゴルで敵なしのボルドバートルはといえばダカールでは苦戦続きだ。前出の3人と比べればマシンそのものはヨーロッパ勢と互角だし、ラリーの経験は充分でモンゴルでは勝利をほしいままにしているしダカールは3度目だ。
しかし彼らのように実力が出し切れていない。
上手く行かないのだ。
上手く行く、と上手く行かないの違いはどこにあるのだろうか、と考える。

きっと勝つことへの執念は、3人に劣らない。
準備の進め方も、彼ら以上に慎重で丁寧だと思う。
技術やスピードも互角だ。
しかしうまくレースを運べていない。

「ダカールとは、いったいなんなのだろう?」
と、考えさせられる。

前出の3名の日本人は初出場以来2度ずつだろうか、必ず15位前後で極めて非力な体制で走り切っている。

いっぽう3度目のボルトバートルは、やはり苦戦している。
ダカールとは、ほかの競技と同じくメンタルの闘いなのだ。しかもダカールは多くのものに「その人生」を賭けろ!と強要する。
年に1度のイベントに人生を賭けると、浦島太郎の玉手箱の中に入り込むほどの時間の犠牲を強いる。そして、気がつけば体力も気力も衰えている自分に慄然とする。
こうしてメンタルとは、精神力のことととらえられがちだが、ダカールで言うメンタルは1年間費やした非情さのことだとボクは考えている。
非情、とは言葉が悪いけど、大きくは間違っていない。それは膨大な時間の量の逸失のようなものかとも思う。

そしてさらに加えると、ボクは3人の奇跡のようなラッキーを何度か目にしている。
エンジントラブルで辿りついたビバークにのみ届いていたたスペアエンジン。とか、優勝を手からこぼしたと思った瞬間に、遊牧民のポケットにあった探しても見つからなかった同サイズのボルトとか。

結論を言うと、結果をもたらすのは、やはり女神の存在かもしれない。


 
2015/01/05 (月曜日)

 

「ブエノスアイレスから。」

明けましておめでとうございます。
この時期になると携帯の着信を深夜にもマナー解除にしておかなければならない。
昨晩も10時ころに(いつもなら気がつかないのだけど)電話!!なにか鳴り方で内容も分かるというものだ!もちろん「通知不可能」のディスプレイ。これはまぎれもなく菅原さんだ。
「あと1時間後にスタートです。昨晩は大統領府前でセレモニースタートをしたのだけれども、老若男女が詰めかけてサイン攻め。大統領府前ですよ。。この盛り上がりはとにかくすごい。日本ではあと100年かかってもこうはならない。」
要約するとそういうことでした。

毎年恒例の会話だ。

なにか盛り上がらない日本のモータースポーツへの憤りをこのスタートでは毎回感じるのだという。

「いやあ、このまえは箱根ターンパイクを貸し切ってヒルクライムがありましたから、これからですよ。」「そう、それはすごいねえ。でもまああそこは民間の所有だしね。昔は借りてよくヒルクライムしたもんです。」「・・・・・」すこし時代が巻き返しただけなのだ。

ともかく今年も無事にダカールはスタートした。
Team SUGAWARAの1号車は、超ど級の加速ポンプに匹敵するナビを得て、頑張るに違いない。マシンの進化の著しい2号車テルヒトは、マシンにトラブルさえなければ上位に絡むはずだ。とにかく注目!!そしてTOYOTAの三橋も円熟期!!で、なによりも気になるモンゴル勢は、ラリーモンゴリアのMOTO/AUTOの首位グループを形成するメンバーでの参加!!3人乗り?は「???」だが、初めてAUTOでMOTOを抑えて総合優勝したやつらだから、きっとアッと言わせてくれるだろうと期待は高まる。。
それにしてもラリーモンゴリア20年の歩みは、ここまでやって来たのだ。。。
感慨深い。本当に。

きょうの一枚

話しは変わってリンドン。いまはベトナムかタイにいるみたいだけど、旅は続いています。そしてFrmの最新号には彼の旅が紹介されるそうな。。ボクとはケンカ?ばかりしてたけど、旅の無事を祈ろう。