Organisation Voice 2012/03

 

 

2012/03/30 (金曜日)

「日本人の美学」

サクラサク・・・そんな合格電報の言葉にも美しさを感じていたオジサンたちの世代。
あなたのサクラは咲いたか?

しかし咲くサクラは、実はすぐに散るサクラであるという日本人の人生観。
戦争などで利用はされたものの、基本的には災害の多かったこの国土で形成されてきた日本人の真情でありつまり美学であったろうと思う。

「明日は無い今日を生きる」
日本人が常に持った無常観・死生観だろう。

「散る桜 残る桜も 散る桜」

これは良寛の辞世の句としてつとに有名だが、早いか遅いかの問題だと言っているのではなかろうと思う。生き方を言っているのだ。

ところで最近の大河ドラマでは、瀬戸内寂聴の説を採って待賢門院への失恋から出家したのとしているのだが、そのシーンも桜が見事にあしらわれて、あざとさもなかなかのもの。

「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」

毎年この季節に、ボクは欠かさずこの西行の歌を書いた。
日本人の桜に対するたいそうな思いを強く思うばかりではなく、なんとなく西行という名の「西に行く」という語彙や、旅の中に人生を見出してそれに生き、後世の芭蕉にまで強くその精神を伝えたという意味で偉大だとも思う。

西に向かうということは沈み行く太陽に向かうことで、思わぬ寂寥感にさいなまれる。
サクラを見に行こう。
もしサクラの季節が終わっていたら四国にやって来て、西行のように旅をしてみよう。
GWにね。

 
2012/03/29 (木曜日)

「こんな日は、ヘミングウエイのように。」

日本くらいだろう
「ボクは晴れ男だ。」「お前が雨女か!?」
なんてやっているのは。
そこで、こんな愚かしい発想について、いろいろと考える。

統計的にこれを分析することになぞ、一切の意味はない。
しかしだ。もしかしたら血液型と晴れ男の関係があるやもしれないが、それもまあ偶然の一致と言っていい。おおかたのB型は晴れ男で、A型は雨男だと思うか。

で結論から言う。
楽観主義者やエピキュリアンは「晴れ男」を名乗るだろう。そして悲観論者、ストイシズムの人々は「雨男」を称する。
あなたはどちらだ?
まあ雨男を自ら名乗るのは、まるで自分は運の悪い男だ、と言っているようで実にモテない。

研究の成果について語ってみよう。そもそも分布で見れば、晴れ男は海岸に近いエリアに生息している事が普通だ。日焼けもしていることも多い。
太陽の恵みと海の幸にはぐくまれてまあ「どうにかなるわ」という、関西人や南太平洋の島々に暮らすような?鷹揚さを身につけている。
問題はこうした日本人が増殖していることだ。
こうした男たちは職種でいえば漁労または政治家。なかには東京○力会社勤務のものに多い。
いっぽうで雨男というのは、生活の厳しい山の民に多いことが伺われるな。
冬や悪天候に備え食糧不足にも燃料不足にも備えるという、実は古い日本人的な性質を有している。
哲学者などという者の多くはここからしか排出されまい。また物理学者も実は「雨男」が多い。
彼らはいつも被害者意識を持ち「いつかは海の近くで暮らしたい。」という潜在的な意識が彼らの深層心理を抑圧的なものにしていると言える。
へミングウエイやゴーギャンなんかがこれにあたるわけだ。
「老人と海」に至っては美しいエピキュリズムと、精神的な快楽と、最後には喪失してしまうと言う分かるものにしか分からないものが、世界中の人にわかった?
という不思議な構図だと言える。
って、全く自分でわけが分からなくなっいたから。このあたりで今日は終わりだ。
明日、晴れることを祈ろう。

つまり結論。
雨男のように準備をして、晴れ男のようにその日を待つ。

きょうの一枚

釣り師は、つねにストイックであるがゆえにささやかな釣果にも満足を得るのだ。っていうような釣果ではない、ヘミングウエイ。。。1950年頃。

2012/03/26 (月曜日)

「そう、来ましたか。」

SSER2011の最大の敵は「雨」でした。全てのイベントの全てのスケジュールに「雨」がありました。あっ、国内の話ですね。

そりゃ、多雨の国ですから雨も降ります。でもここまでドンピシャで降ることはないじゃないかとも思います。たまたまボクタチは好んで、リスクのある環境に身を置く性癖があります。

だからカッパとか非常食とか懐中電灯とか、場合によってはロープまで背負っています。ですから、まあ大丈夫なわけですが、それにしてもこの雪の中をバイクを走らせ続けるのは、いかなモチベーションなのかとは思います。

そして、そうでない日本中の皆さん!たとえば遠足とか運動会とか、
楽しいお出かけとかがどれほど週末ごとの雨に祟られたでしょう。う。
その経済的損失も、かなりなものではあります。

そしてSSERには「ついに雪まで降らせましたか」という賛辞?の声が全国から続々。

ボクはこうした状態でも平気で出動できる、災害等緊急時支援機動隊の創設!を
間もなく発表する予定です。これはまたどこかで詳しく述べることにしますが、
昨年の東日本大震災の緊急支援活動の反省からずっと育んできていたものです。

天は我々に試練を・・・と言うことではありませんが。
せめて北海道4デイズくらい、今年は4連続ピーカンでお願いしますね。

きょうの一枚

雪で、鯖街道。

2012/03/21 (水曜日)

「妄想にも似た浪費こそが、後世に。。」

確かに2000年も4000年も前の建造物を見て驚くのもいかがかとは思うが、昨晩は秦の始皇帝陵に科学の目が入る・・・みたいなのを眠い目を?こすって見ることにした。

ほんとうに莫大な浪費で、いやしかしこれもまた公共事業で。。何度も行ったあの兵馬俑も、その隣に「まだいまの科学では発掘しても保存できないから」という理由で、そのままにしてある始皇帝陵の話も素晴らしいじゃないか。

日本では幕末の騒乱期。。バイエルン王ルードリッヒ2世は、シャトーの建築に明け暮れて最後は謎の死を遂げた。白鳥と呼ばれる?おそらく世界で最も美しい城ノイシュヴァンシュタイン城、ヴェルサイユ宮殿を模したヘレンキムゼー城それにリンダーホーフ城。まさにドイツの世界に冠たる観光資源を築いたのは精神病といわれた王だった。

始皇帝は、これを遡ること1900年。兵馬俑も凄いものの、やはり墳墓はただ事ではない。中国の人と話すと「いまだに火が燃えている」とか「水銀の川が流れ、水銀の海が地下宮殿を囲んでいる。」のだそう。それも兵馬俑が出てきたものだから、確かにそれはあるなあ。。と思えるから仕方が無い。

2000年を越えて火が燃え続けてるとは思えないが、始皇帝ならあるかもしれないと。。そして兵馬俑だけでも年間夥しい数の観光客が世界から押し寄せてきているというのに。。

これで始皇帝陵を何とかし始めたら、西安の観光は永遠に大丈夫なのではないかと思うほどだ。
いまの日本は、後世に金を紡ぎだすときには荒唐無稽な公共建築物は無いのか!!と思っていたら「東京スカイツリー」が出来ましたね。それでも万里の長城や兵馬俑の構想には遠く及びませんよね。

なにが言いたいのかしらボクは。。
さて週末は京都。残されているものが後世の人たちの面倒を見ている、という意味では京都も思いが詰まっています。

きょうの一枚

ノイシュヴァンシュタイン城。美しくて悲しい物語。
それにしても近世にあってこんな中世の城を築く美意識には、脱帽だね。


2012/03/19 (月曜日)

「春来た。バッテリーはどうだい?」

春です。いつも着ているインナーを3シーズンのものに変更。ってかパタゴニアの
インナーがTシャツになっただけの話ですが、これぞ「春」って感じです。
まず着ているものが軽くなるのが良いです。
肩の凝りも減るってものですもの。

そうなる時になるのはガレージのバイクのバッテリー!!
GSはつい最近新品にしたついでにおすすめのチャージャーをネットでゲット。
しかしネット通販というのはいかがなものでしょうね?

店頭で
「これいいね。安いし。」
「じゃあ、帰ってネットで探そう。」
「そだね。」
そして帰る。
ネットを見る。
「やっぱ、ネットのほうが安い!」
って、こんなことばかりで良いのでしょうか?

いつぞやも書きましたがネット通販の販売高は7.7兆円!だとか。
そこらの大手流通なんて問題外!の売上!!
これから店頭というのは、展示のみで、販売はしない。
入店料金をいただく。
というのはいかがか。

店舗というのは、コストが莫大にかかります。
それをあなたたちときたら、サイズあわせのためだけに来て。。。

さて、そんな話ばかりでは悲しいので、旅に出るお話でも。とりあえず週末はTDRで京都だし、そのあともばたばたしながらも次から次へとラリーやら旅やらの季節が到来したって感じ。んで、秋にはタクラマカン。というかシルクロードのツーリング。そこで今日はネット通販では手に入らない?シルクロードの旅の地図を。右端にある「敦煌」がスタートゴールですが、実際はその少し手前にある嘉峪関にマシンは運んでおきますから、実際はそこからスタートです。

そしてこの図でいえばハミ、トルファンと進み、コルラ川を越えてニヤに向かいます。ここが今回のルートのハイライトのひとつ沙漠公路。途中でニヤに向かわずにチャルチャンに向きを変えて、チャルクリクそう米蘭故城のある。。。そしてこの図では清海に向かうルートで4000mを越えてチベット高原の裾野を走って再び敦煌に戻るというもの。

さあ、バッテリーを新品にして・・・

2012/03/14 (水曜日)

「あのときのイギリスといまの日本はどうなんだろう。」

「戦争の経験も無いくせに」
「お言葉ですが、闘わなかった日は1日もないわ。」
これは映画「マーガレット・サッチャー鉄の女」のなかの一コマ。フォークラン
ド紛争を決断するシーンだ。
いやそれにしてもメリル・ストリープは名優だと思う。
それだけではなくて、マーガレット・サッチャーにも興味がある。
観にいかなくちゃね。いつからだっけ。

息子マーク・サッチャーの「パリダカ遭難劇」ネットなんかない時代。新聞の社会面かどこかでふと見かけた。そんなことがあるんだなあ。遠い砂漠のラリーの困難さに思いをはせた。

マーガレット・サッチャーは「マークが見つからなければ、こんなラリーは必ずやめさせる。」と発言。だれもが「うーむ。」と唸った。ほんとうにそうなるだろうな。というだけの説得力もあった。きっとダカールにイギリス人が少ないのは、このときのトラウマじゃないかと思ったくらいだ。それほど怖くて、カッコ良かった。

さて、そのマークもどうしているのか?もう60くらいじゃないのかな。なにかの利権がらみでテロだかなんだかで、南アかどこかで逮捕されて懲役15年ていう判決をうけたとかを聞いたことがあったな。そしてマーガレット・サッチャーはいま認知症に苦しんでいるんだとか。まことに人生は困難だと思う。人生はまるであの時代のパリダカのようで、学ばなければ自ら立ち往生をしてしまうのかもしれない。

きょうの一枚

自分でも不思議なんだが、2009年10月にカイラスの麓までクルマとバイクで行った。それは夢のような経験。いまでも自分の人生の計画の中に「カイラス」は入っていなかったから、行くことになるとは思いもしなかった。マナサロワール湖の畔から撮影した1枚。

2012/03/12 (月曜日)

「北海道4デイズ」

いよいよ北海道4デイズもエントリーが開始しました。
ほんとうに波乱の2011年でしたが、無事に開催され今年に繋ぐことができました。芦別市のみなさまほか北海道の友人たちに深く御礼を申し上げるばかりです。芦別市というのは、本当にわれわれにとっても特別な思いのある土地です。

1988年に菅原さんたちがラリーキャンプイン・アシベツを開催され、シリル・ヌブーやフヌイユ、そしてガストン・ライエたちがゲストとしてはるばる参加されました。日本の大きなエネルギー政策の転換によって、それまで炭鉱で栄えた町は見る見る過疎化がすすみました。なにかこう現代に照らし合わせても不思議に示唆を感じますね。エネルギー政策なんてのは、全く酷いものです。石炭を奪い合うようにはじまった世界の近代化や軍備の増強は、第2次世界大戦で大きな変換点を迎えます。いやしかし現代でも火力発電の石炭は世界的な需要!日本もほとんどをオーストラリアから輸入しているといいます、きっと海上輸送費を払っても露天掘りのオーストラリア産が経済合理性で上回るのだろうということは容易に理解できます。それでも炭鉱から観光へ、と妙な語呂あわせで進んだ北海道の産炭地のイマについて国はもう忘却の彼方でしょうか。

話がそれました。SSERも2002年から3年間はツールドニッポンとして、この地を訪れます。そこで知り合った方々の温かさに支えられ、ツールドニッポンのあとは、こうした北海道4デイズというフォーマットで開催が継続されています。しかしこの地には悲しい思い出もいくつかあります。

若い頃に見た「きのう悲別で」という倉本聡のテレビドラマ。カナシベツという架空の町は実は芦別と歌志内。イマも歌志内に悲別ロマン座のあとや駅のあとが、まさに悲しい別れをもじったとしか思えないこのドラマの架空の地名の象徴として朽ち果てつつ残っています。いまだに、そのときのテーマソング「二十二歳のわかれ」が、この前もタクラマカンで砂漠の上のビバークの車座の中で50代のおじさんたちによって歌われていたのを思い出します。その前奏を聴くだけで胸が。。。本当にあの時代は切なくて悲しくて、何かやりきれない気持ちでいっぱいでしたね。それを表現すれば分かりやすくなんとも共感した時代でした。

あれほどあの時代、誰もが向かった北海道。いまではその巨大な空間と時間に弄ばれに、ボクたちが向かいます。

2011年は本当に悲しい別れがありました。
いつまでも続けると遺影の前で約束をしました。
さあ、今年もまた北海道を走るのですよ。

きょうの一枚

故斎木校長が連れて行ってくれた悲別ロマン座。そのときの写真は無かったので拝借してきましたが。。。なぜ1984年のあのドラマをボクはこんなに見たんだろうかと不思議です。家になんか帰らなかった頃なのに



2012/03/09 (金曜日)

「なぜか、とても多忙。」

忙しい!という感覚はこの季節にはあまりない。気持ちは忙しいのだが、案外とやってることは一つか二つか、というのが普通だったのに。何か同時進行案件が山のように。デスクの後ろのボードに書き出してみれば、なにかこう片っ端からやっつければ良いのに。

で、考えた。なぜこんなに仕事がある時とない時の差があるのか(ラリーとかFUTUREとかは含まない)それは、やっぱり自分の発している「やる気」なのかもしれないと思う。それと周囲に「いまはこれを取り組んでいる。この仕事もあの件も進行している。このプロジェクトも立ち上がった。それに・・・」とまあ守秘の範囲内で話していると。。電話「ちょっと頼みたいことがあるんだけど。」「うーす。」そしたら「会社案内をWebと印刷物で!」「ウース」そうそう「仕事」は「仕事をしている人」が好きなのだ。

そんなことで、よし!仕事をするぞ!と思いきや、美術館巡りとバイクに乗るのと、家具屋巡りと。。。そんなことを考えては、ラリーのことに思いをめぐらせているのでありました。

きょうの一枚

片岡球子の描いた、無数の「富士山」103歳でなくなる直前まで書き続けた日本画の革新的な女性。70年代にとある百貨店って知ってる人は知ってますが・・・の個展で見て以来。。。

2012/03/07 (水曜日)

「TDRを、よろしく。」

今回で4回目となるTDR。。。昨年は琵琶湖の畔で。その前はそういえば富士山の周囲を。そして記念すべき1回目の大会では出雲まで!!と、なかなかのスケールで展開しています。

これは単にラリーの裾野を広げたい、という思いからはじまったのですが、どこでどうしたか「歴史探訪」なんていう部分も大きくなってきました。ちょうど大河ドラマなどの影響をもろに受けたのかもしれません。

昨年3月11日。このTDRのための試走中、ちょうど午前中に湖東で浅井長政の居城あとや安土城を巡っているときに、あの大震災が起こりました。
一時は当然のことTDRの開催を中止しようと思いはしましたが、頑張って開催したことが今でもささやかな誇りのようなものになっています。

間もなく震災から1年を迎えます。日本国内はさまざまな議論に揺れ、人々の「生きる」という意識にも大きな変化が起きています。しかし日本をくまなく走ってみれば、昔ながらの変わらぬ暮らしと人々の繋がりは、連綿と歴史を刻み続けているのが解かります。

ちょうど1年前。震災直後からSSERは緊急支援に石巻に向かい、1ヶ月間にわたる支援活動を行いましt。しかしそのときに出た問題点や課題は、いまだ着手できていないという反省もないわけではありません。
こうしたささやかなラリーでも、人々のネットワークは出来て、なにか事ある時にはそのネットワークも必ず生きてくると思います。

とまあそんな思いで、あれから1年。TDRで、まあ緊急出動訓練のようなものとでもお考えいただき、間もなく締め切りですがどうぞご参加ください。

2012/03/05 (月曜日)

「あれ、何の話だったっけ。」

途中になってしまっていた「なぜ山にのぼるか」の話。
続きを書こうかと思ったものの、なにを書こうとしていたかが思い出せない。
まあそのくらいのことだったのか。
それでも、山小屋ホテルと呼ぶ事務所の奥の部屋でボーっと座っていると、あのころの微妙な熱の残り香がある。
あのころなぜあれほど山に惹かれていたんだろう。
1本のピッケルの鈍い光の奥に、覗くことを恐れていたような深遠な淵が口を開けていた。

まあ簡単に言うと
やっぱ人間は「神に対して無謀な挑戦をする地球上唯一の動物なのだ。」
ということだろう。
多くの動物たちは食糧を得るためにリスクを犯すことはあっても、自らの理解しようもない欲求のためにはなにもしない。
いやカモメのジョナサンだけは、挑戦した。
そんなことじゃないかと思う。

また「準備をすることが好き」だということも出来た。
ボクも準備をすることが無性に好きだ。菅原さんにいたっては、すでに来年のダカールに持っていくものの「ものいれ」のダンボールが用意されている。
準備されていたものが予想通り使われることが快感を生む。
準備されていたものでも使わないものがあった場合は、「これは何かあったときのもの」というカテゴリーのものは、使われなかったことに満足を得るが、万が一使わなくてはならなくなったときも嬉しい。これらが山にのぼったりラリーに特に良く通う人たちの姿だ。

いや、ボクは違う。という人もいるだろう。でも根源は同じだ。10年もした頃には1回の海外旅行に行くにも何回も荷物の準備をしては繰り返す人になっている。

ボクがシルクロードの横断の旅に出るときは、数ヶ月前から毎日何度もバゲージを閉めては開けてを繰り返していた。
またなんの話しかわからなくなったので続きはまただ。

きょうの一枚

山小屋ホテルが再び。。。来月はムッホのホテルになる。ここと月日庵という茶室の二つが、ボクの事務所の中での隠れ家?



2012/03/01 (木曜日)

「山にのぼる、についての思考その2」

「人はなぜ、山にのぼるか」
が深遠なテーマだった時代は終わった。
とボクは気づいた。
それは昨日書いた梅棹忠夫先生の「山をたのしむ」から思考を発展させたからだ。
「人はなぜラリーに行くのか。」の謎も、おなじように解ける。

つまりこれらは「人間という動物だけが、なぜ自ら困難に挑もうとするのか?」
という問いだったのだ。

月初めのミーティングが終わったあとの昼食時の話。
ボク
「BC1万年、崖の上に暮らすあなたたち家族は、すでに食料が尽きている。崖の下を動物の群れが通る。あなたはどうするか?」
答えは簡単だ。
「獲りに行くのだ。」
しかし、ほんとうにそうだろうか。現代はリスクマネジメントの時代だ。コンプライアンスもある。
「そもそも、その動物を狩る資格があるか?所有権は?ライセンスは?」
とか
「崖から降りるときが危険だ。」
とか
「逆に動物たちに返り討ちにあうかもしれない。」
さらに
「獲った動物を崖の上に運べないかもしれないし、誰かに横取りされて命まで落としかねない。」
そんなリスクがある。
まあ、かの時代の人たちはそんなふうには考えない。そう考えるのは21世紀の日本人くらいだ。

そして、山へのぼる。

たとえ話で今日の文章量が尽きるかも、、、だけどもうひとつ。

同じ時代。つまりBC1万年。海に住む男が変な魚と、気持ちの悪そうな生き物をたくさん獲ってきた。最近は魚があまり獲れないのでひもじかった。
村のみんなでこれが食べられると、しばらくの飢えはしのげる。
もう少しすると月が満ちて海に魚たちが戻ってくるのだ。

魚は現代の日本では「ふぐ」と呼ばれるもので、もうひとつは「なまこ」という。
「ちょっと誰か食べてみてくれないか?」
「いやだ気持ち悪い!!」
二人の勇敢な男が前に出た。
「おれたちが食べてみる。」

ひとりは魚を、ひとりは変な物体を食べた。
魚を食べた男は、それでもこちらのほうが安全に見えた。
「あんなへんてこりんなものを食べたら、やつは死ぬ。」
そう思った。
もう一人の男は、ヘンテコリンナ物体の気持ち悪さに、死を覚悟したが口に入れてみると、案外コリコリしていて歯ごたえも良い。
「もっとグチャッとしていると思ったのに。これが食糧になればおんな子供も狩れる。これこそ次の時代のタンパク源だ。」などとは思わなかったろうが、まあそんな予感めいたものは感じた。
どうやらどちらもまずまず食べられたようだ。
だが安心はしていられないことをみな経験で知っていた。

「しばらく様子を見てから、食べられるかどうか判定しよう。明日まで誰も食べてはならん」とかって獲ってきた男が威張って言った。

魚を食べた男は翌日、死んでいた。
変な物体を食べた男は、元気だった。

こうして二人の勇敢な男は、生き残ったものは村のヒーローになり、死んだ男はやがて忘れ去られた。

リスクと選択の結末の多くはこうしたものだった。

お前はなにが言いたいのか?
続きはまた明日。

きょうの一枚

「石鎚山」

いわずと知れた?西日本の最高峰。TBIはこの山のまわりを走ります。ボクタチのふるさとの山で修験道の山です。1989年はボクが主演!!??でNHKの全国放送の番組を制作しましたよ。いま見たら噴出せます。