「山にのぼる、についての思考その2」
「人はなぜ、山にのぼるか」 が深遠なテーマだった時代は終わった。 とボクは気づいた。 それは昨日書いた梅棹忠夫先生の「山をたのしむ」から思考を発展させたからだ。 「人はなぜラリーに行くのか。」の謎も、おなじように解ける。
つまりこれらは「人間という動物だけが、なぜ自ら困難に挑もうとするのか?」 という問いだったのだ。
月初めのミーティングが終わったあとの昼食時の話。 ボク 「BC1万年、崖の上に暮らすあなたたち家族は、すでに食料が尽きている。崖の下を動物の群れが通る。あなたはどうするか?」 答えは簡単だ。 「獲りに行くのだ。」 しかし、ほんとうにそうだろうか。現代はリスクマネジメントの時代だ。コンプライアンスもある。 「そもそも、その動物を狩る資格があるか?所有権は?ライセンスは?」 とか 「崖から降りるときが危険だ。」 とか 「逆に動物たちに返り討ちにあうかもしれない。」 さらに 「獲った動物を崖の上に運べないかもしれないし、誰かに横取りされて命まで落としかねない。」 そんなリスクがある。 まあ、かの時代の人たちはそんなふうには考えない。そう考えるのは21世紀の日本人くらいだ。
そして、山へのぼる。
たとえ話で今日の文章量が尽きるかも、、、だけどもうひとつ。
同じ時代。つまりBC1万年。海に住む男が変な魚と、気持ちの悪そうな生き物をたくさん獲ってきた。最近は魚があまり獲れないのでひもじかった。 村のみんなでこれが食べられると、しばらくの飢えはしのげる。 もう少しすると月が満ちて海に魚たちが戻ってくるのだ。
魚は現代の日本では「ふぐ」と呼ばれるもので、もうひとつは「なまこ」という。 「ちょっと誰か食べてみてくれないか?」 「いやだ気持ち悪い!!」 二人の勇敢な男が前に出た。 「おれたちが食べてみる。」
ひとりは魚を、ひとりは変な物体を食べた。 魚を食べた男は、それでもこちらのほうが安全に見えた。 「あんなへんてこりんなものを食べたら、やつは死ぬ。」 そう思った。 もう一人の男は、ヘンテコリンナ物体の気持ち悪さに、死を覚悟したが口に入れてみると、案外コリコリしていて歯ごたえも良い。 「もっとグチャッとしていると思ったのに。これが食糧になればおんな子供も狩れる。これこそ次の時代のタンパク源だ。」などとは思わなかったろうが、まあそんな予感めいたものは感じた。 どうやらどちらもまずまず食べられたようだ。 だが安心はしていられないことをみな経験で知っていた。
「しばらく様子を見てから、食べられるかどうか判定しよう。明日まで誰も食べてはならん」とかって獲ってきた男が威張って言った。
魚を食べた男は翌日、死んでいた。 変な物体を食べた男は、元気だった。
こうして二人の勇敢な男は、生き残ったものは村のヒーローになり、死んだ男はやがて忘れ去られた。
リスクと選択の結末の多くはこうしたものだった。
お前はなにが言いたいのか? 続きはまた明日。
きょうの一枚
「石鎚山」
いわずと知れた?西日本の最高峰。TBIはこの山のまわりを走ります。ボクタチのふるさとの山で修験道の山です。1989年はボクが主演!!??でNHKの全国放送の番組を制作しましたよ。いま見たら噴出せます。
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