REPORT of Raid Trek Taklamakan 20 Nov 5:00 「征哉、死亡の海」
まあぶっそうなタイトルになったけど、チャルチャンの真新しいホテルで真っ暗なうちから起きてこれを書き始めた。昨日は輪台から今回の旅のハイライトでもある沙漠公路縦断に挑戦した。まだ薄暗い中ホテルを出ると。氷点下2度。「案外暖かいねえ。」という山口さん。走り出してしばらくすると気温は下がり続け、氷点下10度!!
ヘディンが筏で下り始めただろう場所、つまりタリム川に架かる橋の上でしばし陶然とするのはぼくと山口さん。あたりはバオバブのようなタマリスクの林が続く。
ヘディンの記述には、特にこの木のことがよく出てくる。中国名は胡楊(こよう)。この木で筏を作り、たき火にもあうる。とにかくこの地を象徴するものだ。樹齢は1000年を超えるものも少なくなさそうだ。案外ゾーモットの木にも似ている。
石原さんと「まるでバオバブ!タンバクンダあたりみたいだねえ。」と話す。 実は「彷徨える湖ロプノール」に唯一水を供給した川がこれなのだ。天山山脈の大量の雪解け水を砂漠の中を運び。湖のほとりに楼蘭王国を栄えさせた。自らが発見した古代都市遺跡。それを実証するためにヘディンはこの川を下った。記憶が正しければ1934年だと思う。ヘディンは今のぼくの歳を越えていただろうか。自らの説を自らの行為で実証する。どれほど高揚した気分だったのかは、容易に想像がつく。 しかし世界は不穏な戦争の足音のさなかだった。国威発揚のためのヒトラーに支援されていたヘディンは、それゆえに戦後も評価されることはなかった。
太陽が上がり気温がプラスになった。砂丘が現れはじめる。この日本列島がすっぽりと3つも入るだろうタクラマカンは、まさに広大無辺なる砂のうねりだった。世界にこれほど広い砂丘群は存在しない。それは延々と砂のうねりの中を走り続ける。このような体験も、ここでしかできない。 太陽が大きく傾き地平線まで続く砂のうねりにかかるころ、砂丘で最後の撮影をした。 誰もがこの圧巻の景観に感動をしていた。
そうそう、入り口のアーチには「征哉、死亡の海」と書かれていた。「おまえ、ほんとうにこのタクラマカンを行くのか」となかばあきれたような、なかば自慢げなその看板をくぐった。油井がいくつかあるというだけでこうした舗装路がこの砂漠を真っ二つに切り、道路端には防砂林を育てようと懸命の散水用のラインが伸びている。送電線もだ。
河野さんが運転するジムニーの横でぼくが「油井や原発に電気を送るなんて言うのは、料理屋がまかないに仕出しを取るようなものだ。」と言う。そして二人で大笑いをした。
二人の主題のひとつがジムニーネタだ。 ぼくが「1.4ディーゼルターボ・シェラを作ろう。燃費は25km/リッター!で50Lタンク。航続距離1000km。ボディはこのサイズだけど前後のホイールをもう少しずつ伸ばして広げて・・・ブリスターフェンダーでちょいランチアデルタ風味で、足はこうしてあーしてショックはWPかドネアか。。トラベルは35mmで・・」と。
そんな話もこんな話も大量にできる。そしてこの無限の距離に敷かれた石油の副産物アスファルトが引かれた道路を、原油と綿花のトラックが行き交う。なぜ北にも南にも向かう綿花を積むトラックがいてすれ違うのか?なぜエネルギーを生むためにこんなところで人びとはエネルギーを費やすのか。
人の営みの逞しさやら、あほらしさやら。そんな複雑な思いもまたこうした過酷な地を行くときには感じることはしばしばだ。
そして完全に走り切るとチョモランマに行ったときに走ったカシュガルからホータンを経て西寧へ向かう西域南道に乗るとチャルチャンはすぐだった。ポプラ並木のたたずまいが、古いシルクロードの面影を強く残していてあまり発展していないことを望むわれわれには程よい雰囲気だ。しかしホテルは出来たばかりのとても快適で最先端なもので、嬉しいと残念なのが相半ばする。
明日は、いや今日はこれからチャルクリクへ向かう短い行程なので少し出発を遅らせることにした。明日は米蘭遺跡に行く。
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