Organisation Voice 2012/11

 

 

2012/11/25 (日曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

REPORT of Raid Trek Taklamakan
25 Nov.
「嘉峪関にゴール!」

ハミから河西回廊の抜けるような青空の中を、
ただし気温は氷点下10℃まで下がってはいるが、みんな元気よく走った。
遠くに雪を頂いた峰々を眺め、
一気に冬になっていくシルクロードの束の間の美しさに酔いしれた。

新疆ウイグルを出て甘粛省に入った。ウイグルのアラビックの表示が消えた。
ここ嘉峪関は万里の長城の西の果てだ。
ここまで伸びた長城の外から帰ってきたという感慨は大きい。
「古来西戦幾人か帰らん」の気分だ。

敦煌に行けなかったのはちょっぴり残念なのだが、
驚くことにこれだけのメンバーで敦煌に行ったことのない者は、
たった一人なのだということだ。

とにかくこの困難な旅も無事にゴールし、最高に贅沢なホテルで乾杯を繰り返し、
ウイグルのブドウの美酒や、白酒を飲みに飲んだ。
旅のレポートはまたあらためて描こうと思う。
心配したり応援していただいた皆様にはご報告かたがた、
この 場を借りて心より厚く御礼を申し上げます。

また旅で、お目にかかりましょう。

  

 

2012/11/24 (土曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

REPORT of Raid Trek Taklamakan
24Nov
「河西回廊を東に。」

青海省を経て敦煌に行くルートをあきらめた我々は、再びトルファンまで戻ってきた。本来なら今日は敦煌の1日だった。氷点下10℃を下回る極寒のルートに強烈な北風。まっすぐ進むにはバイクを左つまり北に向かってリーンさせる。GSは巨大なスクリーンとグリップヒーターがライダーを守ってくれるが、URALはスクリーンがない。尾上さんはそれでも「いやあ、こうじゃなくちゃ面白くないよ。」と笑顔でサイドカーを走らせるから驚きだ。毎晩毎晩1本近いパイチュウ(白酒50度くらいだ)を一人で飲み続ける。いやみんなもご相伴にあずかるのだが、その飲みっぷりはさすがに「酒POWER」を自称するほどのものだ。とにかく今回のメンバーのタフネスには驚かされる。

思いがけず変更になったため1日の走行距離は伸び、休日は返上となりそれでも明日には予定通り嘉峪関に着くことだろう。そうそう今日はハミ、パリ北京でもビバークとなったオアシス都市だが、巨大都市に変貌しそうな感じだ。

 

 

 

2012/11/23 (金曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

 

 

 

REPORT of Raid Trek Taklamakan
23 Nov.
「タクラマカンに戻ってきた。」

昨日から緊急事態で大幅にルート変更を余儀なくされた。いまコルラとトルファンの間にある和蹟という町のホテルに宿をとった。本来なら明日は敦煌の休日のはずだが。

昨日はチャルクリクから花土溝に向かい崑崙山脈の裾に向かった。標高2000mを越えたあたりで積雪とアイスバーン、大型トラックたちが道を塞ぎ前進は困難なばかりか、花土溝は標高2700m、さらに翌日は敦煌に向かう3600mの峠も待ち受けていた。

しばし考えた。そしてただちに全車にUターンしてチャルクリクに帰ろうという指示を出した。このまま越えていくことも考えたが脱出不能になることもあるし完全に往復路とも抜き差しならなくなった場合のリスクも考えた。

チャルクリクからはコルラに向かうタクラマカンの東縁の国道218号がある。もう1泊チャルクリクで過ごして今日はコルラに向かうことにした。ただしこの道が通行不能なら予定の帰国は困難になる。

とは言うもののこのルートは通りたかったところでもある。ロプノールに流れ込むはずのタリム川の流路に沿って北上するのだ。チャルクリクのあと50q位であたりは湖のようになってきた。洪水でもあったのか道路が冠水して流された跡を工事が続きダートライディングが続いたが工事の道の埃はうれしくない。

ここはタリム川からロプノールに流れ込むはずの水が灌漑用に南に水路を設けたものが氾濫したのではないかと推測すると、夏のモンゴルの60年ぶりの大雨もここにもこうした水をもたらせたのかもしれない。とにかく灌漑用水路を築かなければロプノールは水を湛えていたはずだ。

少し行くとタリム川と孔雀川(おそらくコルラ川)の分岐あたりに差し掛かった。このあたりでロプノールに流れ込む川が堆積によって流路を変えて「彷徨える湖」となった分岐あたりだろうか。タマリスクの林とデューンを時々見ながら、雪で阻まれたおかげでもう一度タクラマカンに戻れたし、沙漠公路とこの218号で砂漠を見事に半周できたのだと思うと、まんざら悪くはないなあと思う。やたらレアアースの工場みたいなのが林立し急速に発展する砂漠の町や高速道を走って、またまた人間にとっての真の豊かさは何かなあ、と考えることしきりだった。

 


2012/11/22 (木曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

REPORT of Raid Trek Taklamakan
21 Nov
「米蘭故城の砂嵐」

楼蘭賓館は広い中庭に高いガラスの天井が設けられていて、その中は熱帯の植物が元気に育っていて中ほどには鯉の泳ぐ池と小川もある。ここを通ってロビーへ行くときには柔らかな暖かさが心地よい。それに今朝は朝から太陽が昇り、気温は上昇するだろうと思われた。

さあ出発だ。チャルクリクをあとに東に向かう。タクラマカンの地平線に伸びる道でパリダカの時代のアルジェリアのリエゾンを髣髴とさせる。
70kmほど行くと左に米蘭の小さな看板を見つけ、細い道を辿る。そして綿畑の小さなダートを走ると米蘭だ。急に一面は広々とした砂漠のようになり砂嵐が襲ってきた。
まず仏塔。そして宮殿跡に行く。この遺跡はまことにわずかな遺構が残るに過ぎない。しかし見事に保存されたものにはない強いイマジネーションに彩られていた。
西域南道、ここに栄えたいくつかの王国。その興亡にロマンを感じてここまでやってきたのだ。ウルムチで楼蘭の美女を見て、彼女らが生きた4000年前にこの地で営まれたであろう様々な出来事を想像してみる。
砂嵐が吹き荒れ、まるでその中に大スペクタクルを見ているような気分にさせられる。

明日は崑崙山脈の支線アルキン山沿いに青海省に入り花土溝まで行く。地図にない街だが石油が出てホテルまでできて街区が形成されたばかりの新しいところらしい。
さあ旅も終盤。あと2行程で敦煌にたどり着く。まるで征西から帰還するような気分かもしれないと思う。

  

  

  

 

 
2012/11/20 (火曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

REPORT of Raid Trek Taklamakan
20 Nov night
「チャルクリクで。」

ここは楼蘭賓館という名前のホテル。ここに2泊する予定だ。チャルチャンからは、新しい道がまっすぐにこの町まで伸びていてこれまでタクラマカンの南縁を通っていた315号はかなりタクラマカンのデューンの裾まで入り込んでいた。おかげで太陽の出ない寒い一日だが、早い午後にこの町のホテルに着いたというわけだ。

そのうえ胡楊の森を眺めながら、砂漠の道路を駆け抜けたのはこの上もないことだ。
昼食を済ませたらみんなバザールへ出かけたので、昨晩よく寝られなかったぼくは昼寝をしたり井上靖を読んだりしながら、はるか過去からのこのあたりの出来事を夢想していた。

楼蘭国の中心は確かにロプノールに栄えた楼蘭の町だが、ここ米蘭もまたその機能を補完し合っていたのだろう。やはりその理由は水だ。曇っていてよく望めないが崑崙山脈は背後にあるものの、流れる川はみな砂の川で水はまず無い。この地に水があるのか、ロプノールにあるのかが極めて重要だった。

楼蘭から出土した楼蘭美女の木乃伊は白人のアーリア人だったし、この米蘭の仏塔の壁画からは有翼天使の姿が発見され、その姿はヘレニズムの様式であり顔はギリシャあたりのようだ。

いずれにしても先に東へ旅をしたモンゴロイドが緩やかに進化して文明を築き始めたころ、北に旅をしていたコーカソイドらが、後を追って中央アジアに進出してきたということだ、それぞれ異文化として進化したそれらは戦いあったり混ざり合ったりしながら、いまも我々の中に存在する過去となっている。

旅はもう後半だ。この旅に思い切って出て、よかった、しみじみそう思うしみんなもそういっている。明日は米蘭往復、砂をかぶったダートが待っている。その後は敦煌まで2日の行程で標高が高く低温が心配だがそれはすごい景観が待っているだろう。つまり新疆から青海省に少しだけだが入るのだ。

2012/11/20 (火曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

REPORT of Raid Trek Taklamakan
20 Nov 5:00
「征哉、死亡の海」

まあぶっそうなタイトルになったけど、チャルチャンの真新しいホテルで真っ暗なうちから起きてこれを書き始めた。昨日は輪台から今回の旅のハイライトでもある沙漠公路縦断に挑戦した。まだ薄暗い中ホテルを出ると。氷点下2度。「案外暖かいねえ。」という山口さん。走り出してしばらくすると気温は下がり続け、氷点下10度!!

ヘディンが筏で下り始めただろう場所、つまりタリム川に架かる橋の上でしばし陶然とするのはぼくと山口さん。あたりはバオバブのようなタマリスクの林が続く。

ヘディンの記述には、特にこの木のことがよく出てくる。中国名は胡楊(こよう)。この木で筏を作り、たき火にもあうる。とにかくこの地を象徴するものだ。樹齢は1000年を超えるものも少なくなさそうだ。案外ゾーモットの木にも似ている。

石原さんと「まるでバオバブ!タンバクンダあたりみたいだねえ。」と話す。
実は「彷徨える湖ロプノール」に唯一水を供給した川がこれなのだ。天山山脈の大量の雪解け水を砂漠の中を運び。湖のほとりに楼蘭王国を栄えさせた。自らが発見した古代都市遺跡。それを実証するためにヘディンはこの川を下った。記憶が正しければ1934年だと思う。ヘディンは今のぼくの歳を越えていただろうか。自らの説を自らの行為で実証する。どれほど高揚した気分だったのかは、容易に想像がつく。
しかし世界は不穏な戦争の足音のさなかだった。国威発揚のためのヒトラーに支援されていたヘディンは、それゆえに戦後も評価されることはなかった。

太陽が上がり気温がプラスになった。砂丘が現れはじめる。この日本列島がすっぽりと3つも入るだろうタクラマカンは、まさに広大無辺なる砂のうねりだった。世界にこれほど広い砂丘群は存在しない。それは延々と砂のうねりの中を走り続ける。このような体験も、ここでしかできない。
太陽が大きく傾き地平線まで続く砂のうねりにかかるころ、砂丘で最後の撮影をした。
誰もがこの圧巻の景観に感動をしていた。

そうそう、入り口のアーチには「征哉、死亡の海」と書かれていた。「おまえ、ほんとうにこのタクラマカンを行くのか」となかばあきれたような、なかば自慢げなその看板をくぐった。油井がいくつかあるというだけでこうした舗装路がこの砂漠を真っ二つに切り、道路端には防砂林を育てようと懸命の散水用のラインが伸びている。送電線もだ。

河野さんが運転するジムニーの横でぼくが「油井や原発に電気を送るなんて言うのは、料理屋がまかないに仕出しを取るようなものだ。」と言う。そして二人で大笑いをした。

二人の主題のひとつがジムニーネタだ。
ぼくが「1.4ディーゼルターボ・シェラを作ろう。燃費は25km/リッター!で50Lタンク。航続距離1000km。ボディはこのサイズだけど前後のホイールをもう少しずつ伸ばして広げて・・・ブリスターフェンダーでちょいランチアデルタ風味で、足はこうしてあーしてショックはWPかドネアか。。トラベルは35mmで・・」と。

そんな話もこんな話も大量にできる。そしてこの無限の距離に敷かれた石油の副産物アスファルトが引かれた道路を、原油と綿花のトラックが行き交う。なぜ北にも南にも向かう綿花を積むトラックがいてすれ違うのか?なぜエネルギーを生むためにこんなところで人びとはエネルギーを費やすのか。

人の営みの逞しさやら、あほらしさやら。そんな複雑な思いもまたこうした過酷な地を行くときには感じることはしばしばだ。

そして完全に走り切るとチョモランマに行ったときに走ったカシュガルからホータンを経て西寧へ向かう西域南道に乗るとチャルチャンはすぐだった。ポプラ並木のたたずまいが、古いシルクロードの面影を強く残していてあまり発展していないことを望むわれわれには程よい雰囲気だ。しかしホテルは出来たばかりのとても快適で最先端なもので、嬉しいと残念なのが相半ばする。

明日は、いや今日はこれからチャルクリクへ向かう短い行程なので少し出発を遅らせることにした。明日は米蘭遺跡に行く。

2012/11/17 (土曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

 

 

 

REPORT of Raid Trek Taklamakan
17 Nov. 北京時間 PM19:00
「トルファンの1日」

ここトルファンは唐の時代には「火州」と呼ばれた盆地で、まさに世界的にも熱い土地だ。死海に続く世界で2番目の低地の湖もある。そこの海抜はマイナス150m。

その盆地では、まさに鍋の底のような炎熱の夏をしのぐため天山の地下水を網の目のようにめぐらせたカレーズという冷房給水システムが紀元前より営々と続いている。カレーズを掘るのは大変な労働で、それを維持管理するのも同じだ。その清冽な水で育てられるブドウたちはこの土地にいくばくかの恵みをもたらせた。日干し煉瓦を網目のように積んだ干しブドウ場が目につく。この地域の風物でもある。

そんな家並を眺めながら、高昌故城に出かけた。ここは玄奘三蔵も訪れ2か月も滞在した高昌国のことだ。城というのは日本と少し概念を異にして、城塞都市のことをいう。周囲を壁で囲み、ほぼすべての都市機能が城内にあるのだ。最盛期にこの城内には3万6千の民が暮らしその1割は僧侶だったというから、まさに仏教王国だ。天竺に向かう三蔵法師はこの城で過ごし、帰路で立ち寄った時にはすでにこの国は滅んでいたという。

日中は50度にもなる夏の炎暑も、日干し煉瓦の断熱性と極度の乾燥に加えカレーズの冷水で、案外この地でも悪くないんじゃなかったのか?なんて尾上さんと話しながらロバ車に揺られていた。

そして昨日ウルムチの博物館で見た木乃伊の保存されていたアスタナ古墳群を覗き、トルファンの市民の台所「バザール」を彷徨って異邦人の気分を味わう。

とにかくありとあらゆる品物がうず高く積み上げられている。色とりどりの果物、野菜、ドライフルーツの種類もただ事ではない。もちろん衣料品もあれば、本物か偽物かはともかくi-phoneだって雑踏に晒されている。

しかし今回の買い物の目玉は乾燥イチジク。いくつも並ぶ露店で値踏みをしながら(というか、つまみ食いをしながら)尾上さんは大粒の高級品を3sも買ったので、ボクは小粒のものを1s買った。さて、帰り着くまでもって土産になるのだろうか。さっそく今夜はこれを持ち出して、トルファンの名産ワインを愉しもうかということになった。

こうして異民族らが暮らし様々な文化や熱情が交錯し、人びとが生き生きと暮らす姿を見るのこそがシルクロードの旅だ。

ぼくの旅のテーマソング異邦人の歌詞「市場へ行く人の波に身体を預け、石畳の街角をふらふらと彷徨う、祈りの声、ひづめの音・・・」を遠くで聞きながら本当に時間旅行が始まった気がした。

明日はいよいよスタートだ。わずかに高速道でコルラ迄行きタリム川をヘディンのようにいかだで渡る夢を見ながら砂漠の入り口の小さな町「論台」まで走る。ぼくはこの旅にヘディンの「彷徨える湖」を携えてきた。帰ったらこの翻訳本を書きたいなあ、ていうかこれをベースにもっと生き生きとしたシルクロードの人びとのことを書こう、なんて気分だ。気温は大丈夫そうだしマシンもみな順調そうだ。ウラルのみ少しオーバークールだとかで熱いエアをクリーナーボックスまで導風する?スペシャルな改造をしたようだ。

さあ元気に出発できそうだということを報告しておきます。


2012/11/16 (金曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

REPORT of Raid Trek Taklamakan
16 Nov. 北京時間 PM10:00
「トルファンのホテルでマシンに再会」

ウルムチで博物館に寄った後は一路トルファンへ。
道はすべて下りで、標高900mから200kmで標高マイナスまで一気に降下する。
厳冬のウルムチからなんとなく暖かな初冬のトルファンに着いた。
途中で人気のうどん店で、トルファン産の小麦で作るこしの強いうどんに驚く。
そしてホテルで数か月ぶりにマシンに再会。長い道のりを物語る汚れはひどく、
それでも松山で別れてこのような地の果てで出会うのは感激でもある。
明日は予備日なのだが出発準備さえ整えば休息日となり、
名だたる遺跡にも心置きなく足が伸ばせるのだが、
1台だけどうしてもエンジンがかからない。なんとか始動可能になり一安心。

明日はまず燃料を入れ洗車して、それから高昌故城、アスタナ古墳群。
あと交河故城にも足を運ぼうと思う。
トルファンのブドウも房をつけるのは10月の終わりまでで、葡萄棚をそよぐ風に、
とはいかなかったけれどこのシルクロードの要衝三蔵法師もとどまった
高昌国に出向いてこれからの旅を占いたいもんだ。

photo by : APIO Kohno


2012/11/16 (金曜日) REPORT of Raid Trek Taklamakan

「ウルムチ未明」

時計は午前7時30分を指している。これは北京時間だ。
ここは北京からさらに2時 間の時差があり、
現地時間は5時30分である。まだ街は闇の中で夜の気配。
時差からも感じられるとおり、日本から随分と西に移動した。

北京空港では新疆とチベット行は全く別のセキュリティ検査を通らなければなら ない。
その物々しさときたら。。。。

ウルムチはもう完全な冬だ。
先週降った雪は道路端に残り所々でアイスバーンに なっている。
この地は北に天山山脈を抱える標高でも1000mに近い土地だ。

今日はこれからみんなで、この地としては早い朝食、そして新疆ウイグル博物館 を訪ね、
これからの旅で出会う遺跡から出土した品々などを先に見ておくことにした。

そしてウルムチより1000m以上も低い、(つまり海抜はマイナスなのだ)トルファ ンの町へ行く。
ここはウルムチが漢族が多いのに比べ、ウイグル族の多いイスラムの町だし、
高昌古城などに代表されるシルクロードの名だたる遺跡が残る。

バイクやクルマはすでにこの町のホテルに着いている。
思いがけず予定変更が続 いて船積みから数か月がたってしまったので、
マシンのコンディションも心配だ。明日もう1日トルファンに留まり、
いよいよタクラマカン縦断に出かける。

寒いのが心配

2012/11/12 (月曜日)

「タクラマカンへ行ってきます!!」

毎年のこと11月は一度、寒くなって「ええ、こんなに寒くなるのが早いのか」と
思うのですが、一転そのあとは思わず半袖でも過ごせるような小春日和な日々がやってきます。
でもボクは今日も半袖。明日からは、寒い予想の中国奥地へ行きます。
ところが気をつけないといけないのはインナーを厚くしないこと。
とにかく暖房の利かせ方が半端じゃありません。北海道もそうですよね。

年と共に、体温の調節能力が落ちてきていることに気づかされます。
さあて、タクラマカンの旅がどのくらいの気温になるのか!
ボクは温度計を2つ買いました。
2007年のカザフスタンは9月に氷点下7度を記録。
しかしグリップヒーターとスクリーンの威力!!GSならではの長い旅ができました。

きょうの一枚

これね、トルファンのうどん。はじめて食べたのは1992年9月、パリ-北京。菅原さんと、
横田さんとタイムラグはあったのですが。。まったく、讃岐うどん。
一説によると空海が持ち帰ったとか・・・

2012/11/09 (金曜日)

「タクラマカンへ行きますよ。」

とにかくなにかと問題の多かった今年、Raid trek Taklamakan も
ついに許可もそろい出発の日が近づいてきました。
愉しみのひとつは「何を持っていくか?」と「バッグは、どれで行くか?」
ということでしょうか・・・
コーノさんはグレゴリーを買ったみたいだし。。。ボクは比類なき?
バッグコレクションのなかから、
いくつかに絞っているのですが、候補はやはりSSER の20kgバッグ。
そもそも風袋が4.5とか5.0kgもあれば内容物は、すくなくともその重さ分は減量
しなくちゃならない。ということで開発された(大げさ!)SSERのモンゴル仕様
のバッグは、まことに優れている。
しかしBMWのジャイアントバッグも捨てがたいなあ。重くて大きいけど
収納性や仕分け性が良い。重いけど。
いや待てよ、いっそRIMOWAかZeroはどうだろう。というのも映像機材があるし。
でも車の中での安定性はダッフル系にはかなわないしなあ。。。

なんて出発までの数日間を密かに楽しんでいるのでした。
でも最近の傾向としては、どのバッグで行っても
「しまった、あれで来ていたら良かった。」
ということに。つまり超万能なバッグは存在しないということなのですね。

では、行ってきます!!

きょうの一枚

サハラローズじゃなくてタクラマカンローズ。嘉峪関のお土産物屋とか、結構あちこちで売ってる。


2012/11/02 (金曜日)

「週末にひとりごと」

これほど1週間って、早かったのか。。。
ぞっとしています。
ぞっとすると言えば、SHARPやPanaの決算。
テレビではコメンテイタ―が、まさに好き放題を言っています。
腹が立つのは、ボクだけではないでしょう。

彼らの類は、これまでこう言っていました。
「これからは選択と集中の時代です。自社の最も競争力のある分野に集中して経営資源(まあ人と金のことですが。。)を投入すべきです。
不採算事業の早期撤退は急を要します。」

ふーむ。そこでSHARPは悩んだ挙句?液晶パネルと太陽光パネル、そしてLEDに集中するという決断をしたわけです。

ところが
「リスクヘッジができていません。SONYでは保険や銀行、エンターテイメントなど幅広い分野が成功して安定しているのです。」

下手な政治家の妄言よりもエコノミストの結果論のほうが不気味です。
選択と集中を叫んだ時は企業は多角化に苦しめられていたのは事実です。

で、ボクはいつもこう思うのです。
余るほどあるものは足りなくなる。(つまり誰も作らなくなるわけです)
で、足りないものは、あまり出す(みんなが作り始めるからです)
結局、最も大事なことは自らに与えられた天命はなにか?
自分たちが最も素晴らしいと感じれる仕事は何か?
ということで、優位だからとか、誰もやっていないから、とかそういうんじゃないんです。本当に自らの魂を燃やせる仕事をするべきですよ。

誤謬性のことを書きましたが、昨日の晩の日本シリーズの誤審を見て、うーむ。
つまりあれは誤審ではなく、システム障害というかシステムの限界なわけです。

きょうの一枚

今年は標高が上がらなかったので見かけなかったのですが、ヤクです。ネパールなどの高地でも活躍しているご覧の通り耐寒性に優れた牛です。顔が真っ黒で体の真っ白なヤクを見かけると写真が撮りたくなります。そんな宮崎駿に出てきそうなやつがいますよ。