Organisation Voice 2011/06

 

 

2011/06/30 (木曜日)

「モンゴルルート考」

何回目かになって連載中の「ルート考」今回の大会はゴビ深くモンゴル中国国境近くを進む。中国側は内モンゴル自治区と新疆ウイグル自治区と接する。

ゾーモットから南に進むと国境があり、どこへ繋がるかというとハミとか嘉峪関とかが近いのに驚く。昔良く行っていたホブドからは南にいくとウルムチに出る。

シルクロードの名だたるオアシス都市にモンゴルは繋がっているのだ。モンゴルのラリーがいかに深いところ?にルートを延ばしているのかが解る。

この中国モンゴル国境が少し自由に行き来出来るのなら、さらに壮大なものになるだろうといつも思う。しかし国境エリアの夏は少し暑すぎるかもしれないが、ではどの季節が良いかというと疑問も多い。

最近にぎわい始めた国境近くの町ゴルバンテスに久しぶりにルートを延ばした。RCPをこの町の中で設けた。金鉱山が近くにあるし中国に向かう大きな道路が建設中だ。といっても土を盛っただけのものだが。

このエリアでは特に暑さに注意が必要かもしれない。幸いなことに湿度は低いので、直ちに熱中症になるということはないが、ウエアのベンチレーションと水分と塩分補給が必要かもしれない。

それにしてもこの町を離れると真空地帯のようだ。

誰もいない。

2011/06/29 (水曜日)

「塙選手パイクスピークス、EVクラス連覇!」

総合優勝はモンスター田嶋6連覇しかも史上初の9分台!!というニュースはもう既報のとおり。

塙選手は、自身が持つEVクラスの記録13分17秒57を57秒以上短縮する12分20秒084で連覇を果たしました。ここではここのところ塙選手が、語り続けるEV!の可能性を自ら実証し続けるところに心から敬意を表します。日産リーフも市販車EVクラスで14分33秒429、いよいよEVのモータースポーツも目が離せなくなります。

塙選手も次はモンゴルでの大活躍を期待いたしております。

ヒルクライムといえばわれわれも7月31日に久万高原ヒルクライムレース2011という自転車のレースを開催します。前夜はJAZZPICNICぜひお越しください。ていうかヒルクライムはオフィシャル参加を宜しくお願いいたします。

「モンゴルルート考、つづき」

「村を抜ける」について考える。

モンゴルの道は村と村をつなぐ。だからバイパスは存在しない。必ず村へ道は繋がる。大体ひとつの村には少なくとも4つから5つの道がやってくる。村から出て行くときはほぼ同じ方向のように思えても、気がつけば大きく違ってしまっている。また電線沿いに村から伸びる道も油断していたら、なんのことはない何本もあって「しまった」と思うことは多い。村の中は迷う。焦る。すると村の人たちにもそれが伝わって、あまり良くない感情になることもある。速度には気をつけて欲しい。

村に入る前に、その村に向かうおおよそのCAPを把握する。そして村から出て行くCAPをあらかじめチェックしておく。村に入るCAPが180として出る方向のCAPが270とすると、村に入る前に村から西に伸びるピストを望む。すると、見える。オンルートが遠くに見えるが村の中に入ると、そのピストは見えなくなることが多いので、村を抜けて右なのか、村の中で右なのかをコマ地図から事前に読み解いておく。

GSは小さな村でもいくつもあるので、参考にはなるが間違えやすい。小さな測候所かラマ教寺院はかなりの確率でランドマークになる。ルートは村を利用して大きくCAPチェンジをすることが多い。常に方向感覚を養うことが必要だ。

今回のルートでは村は少ないのでそれはまあ安心。でも村の中では40km/hは確実に。


2011/06/28 (火曜日)

「ルート考、つづきのつづき“ゴビハイウェイ”」

80年代パリダカ「テネレハイウェイ」ってのがあった。

距離もたっぷり600km超えなのに、みんな早い時間にビバークに着く。

ニジェールのジャドとかビルマからアリットに向かう「テネレの木」や「ティエリーサビーヌの木」を通るグランドエルグ、「今日は速いよ、テネレハイウェイだから。」そんなふう先輩たちから聞いて「そうか、ハイウェイか?」と速い道を想像したものだ。

案にはからずや、道幅も広く?いつの間にか砂のうねりも終わり見え隠れするバリーズを頼りに西に向かったのも、もうはるか過去の思い出だ。そうパリダカは、ニジェールを去ってから長い月日が経つ。

ハイウェイと聞くと「高速道」しか思いつかないのだけど、数年前にはチョモランマの高度順応で「カラコルムハイウェイでカラクリ湖へ行こう」ということになった。「はて、ハイウェイ??」という不思議な語感にしばしうっとりしてしまった。ここは標高が高いという意味のハイウェイだ。

カシュガルからパキスタンのハヴェリアンまでの1300kmの道路で、途中海抜4,693mのクンジュラブ峠を通る、国境を横断する舗装道路としては世界一の高所なのだそうだ。でもいまは中尼道路でチベットからネパールへの路がおそらく高くなっていると思う。

まあそんな話を書くつもりじゃなかった。

モンゴルでボクタチが呼ぶ「ゴビハイウェイ」のこと。バロンバヤンを中心としたエリアや、マンダルオボーなどに本当に全開で走り続けられるピストの事をそう呼んでいる。しかし、危険でもあるので、少し余裕を持った速度で走るべし、なのでありますな。

今回はたくさん出てくる見込みだ。


2011/06/27 (月曜日)

 

「ラリーモンゴリア、ルート考察。つづき」

バロンバヤンウランの砂丘について考える。
昔から良く使った砂丘地帯だが、ビバークに使用することはあっても本格的にルートに入れたことは2度程度だ。誰かさんはデューンの頂上にKTMを突き刺したまま歩いて降りてきたといういわくつきのところ。

またパリ-北京のあとの時代のラリーのときに、ルネメッジたちが挑戦したけど切り開けなかったのもこの砂丘地帯だ。かくいうボクもまだこの砂丘を横断できていない。

ここは特に強風エリアにある。4月から6月にかけては凄まじい風が吹く。まあこれが日本まで砂を運んでいるのかもしれない。でもボクは、黄砂がゴビ砂漠から飛んでいるという説には否定的だ。黄砂のもとは黄土高原だろうと思っている。黄土高原の砂のほうがパウダーだし少しの風で高々と舞がある。。。いずれにしてもユーラシア大陸の砂漠化も加速している。

どちらにしても砂丘は西風で作られる。風によって少しずつ全体が動く。動く方向は西から東である。全ての砂丘の動く方向は同じである。

そして地図を見るとこの砂丘のある場所は湖と表示されている。
何年かの間に砂が舞い、湖を埋め立ててその上に砂丘を作ったようだ。
気の遠くなるような作業だが、地球規模で考えればそんなに大きな仕事ではなかろう。

で、今回は東から西へ砂丘を進む。したがってこちらに向かって砂丘が立っている。砂丘と荒地の中を西に向かう。本当はこれを横切って砂丘の裏側に出たかったのだが、やはりこれは断念せざるを得なかった。

いつかは越えるぞと心に誓う。

2011/06/24 (金曜日)

「ラリーモンゴリア、ルート考。」

昨日は、今回のラリーのハイライトのひとつ、恐竜の谷について書いた。ならば、やはりゾーモットについても書いておこうと思う。

ゾーモットを見つけたのも、恐竜の谷を見つけたときと同じだった。モンゴルの試走をTV番組(CXのゴールデン!2週連続)にする!2000年だか1999年だったか・・・そのTV番組のDVDすらないのが不思議だけど。石原孝仁さん。。。なるほどザワールドでもディレクターを務める・・・そうそう西安−パリも、チョモランマも・・・一緒に行ったもの。今年のタクラマカンも一緒に行こう!!

スイマセン、話がそれました。
ゾーモットとはモンゴル語で「100本の木」という意だ。いまは100本もの木はないが、そう30本くらいだろうか。樹齢は1000年以下のものは無いと言う。

それもそのはず、この地域は広大なシベリアの森林地帯だったのだ。砂漠化によって森林の後退が、いや森林の後退によって砂漠化が進んだ・・・どちらでも同じだけど。それが1000年前だ。

サハラもそれと同じくらいかも。
しかしゾーモットにこの100本の木が残ったのは、不思議な地下水脈があるからなのだ。小さな湧き水があってそこにはラクダたちが集まる。ゾーモットをオアシスと呼んだのはそういうことだ。

参加者の中には美しい小さな湖があって、ナツメヤシみたいなのが繁茂しているイメージを描いてきたりもする。そんなオアシスだったら素晴らしいけど、いやいやゾーモットは、悪くない。

話を戻そう。なぜシベリアの大樹林地帯が北上して消え去ったかはともかく、その時にまずこのエリアには広大な森林地帯が残った。ヒグマが陸封され、北に後退した樹林地帯へは、行けなくなったのだ。イトウの陸上版だ。ゴビヒグマと呼ばれ、ゾーモットのすぐ近くは広大な自然保護区になっている。潅木しかないのだが人間の手によってえさを与えられ、いまでも数頭の個体は確認されてはいるが。

写真はちょっとお借りしてきたもの。
絶滅の危惧は通り過ぎている状態だ。
1000年もの間に消えていった森に、細々と生を繋いできていたのだ。

ゾーモットはそんな保護区にはさまれたわずかばかりにルートを延ばすことを許されたエリア、そんなことも手伝ってわれわれは、まさに聖地と呼んでいる。しかし金を探す者たちの轍は、そんな保護区へも容赦なく伸びている。

またこのエリアから出る石炭を中国側がアプローチしてきていて、ゾーモットまで鉄道を引く!なんていう話も近年あった。

最近モンゴル政府も自然環境の保護については、真剣に取り組んでいるように思うのだが。


2011/06/23 (木曜日)

「恐竜の谷物語」

今年のラリーは恐竜の谷に南からアプローチする。初めての経験だ。古くは谷にわずかばかりの轍があって、それを辿るというものだったが、いまは至るところに金探しの轍が濃い。

恐竜の谷、と命名したのはボクだ。
谷は緑色だ。岩の色だ。
すぐ近くに古代に干上がったと思われる湖のあとがある。
そこへ行くと化石化した木々が、砂の中から姿を覗かせている。
湖の斜面は露出して、いくつかの地層からいとも簡単に恐竜の大きな骨格の化石が見つけられる。

恐竜の谷には、緑色の恐竜たちが水を飲みに集まってきているように見える岩が
続く。ここに迷い込むと、本当にジュラシックに時間が遡ったような錯覚すら覚える。

「ここでほんとうに恐竜が出てきたら、このラリーは世界でとても有名になるね。」
来るたびにそんな話になる。
するとボクはティエリー・サビーネを思い出す。
真偽のほどはともかく、マーク・サッチャー(当時の英国首相の息子)が行方不明になったのを、ティエリーは居場所を知りながら隠してパリダカを一躍有名にした!という逸話。

おそらくそれは周囲が言い出したレジエンドだろうと思う。
しかし、報道とは面白いとは思う。
そんな人物も参加しているのか?と驚くことによってもたらされる効果のほうが、そんな危険なラリーってあるかい!!ということに勝ったのだ。

そんなことを考えながら、恐竜の谷に降り立った。きっと多くの参加者はこの地に驚くだろうと思う。

まさにジュラシックだ。

きょうの一枚

恐竜の谷、恐竜たちが水を飲みに集まってきている。

 
2011/06/22 (水曜日)

「モンゴルの自然環境」

1年前の今日のOVのタイトルが「モンゴルの自然環境」

昨年の試走中のボクとムッホの会話をもとに書いた。

しかし今年は少し思いが違った。
環境のことよか、立ち消えになったとはいえモンゴルに日米合同で核廃棄施設を
作る!なんていう話があったかからかもしれない。

果たして「自然とか環境」とはなんだろうか?
そもそも
「守らないといけないなんていう自然とか環境は、必ず破壊される。」
つまり
「守らなきゃ」
と思うほどの存在は所詮は、弱い存在なのだと言うこと。
全ては淘汰され無くなるか変質するのだ。

しかし、そもそも自然は驚くばかりの力を持っていて
「自然を守る」
なんてのはおこがましいと言うか表現を間違えているのだと思う。

どのように傷をつけようと、
強いものは立ち直り、ささやかな傷でも弱いものは倒れる。

モンゴルの大地は、実はそう弱くはない。
しかし守るのではなく、穢さないとか、そういう精神的な向かい合い方が正しいような気がする。

はっきり言うと自然を守るのではなく、われわれ人間は所詮は自然の驚異からわが身を守らなければならない程度の存在だったのだ。

人間の営みなど、いとも簡単に木っ端微塵にされる。
しかしとんでもない物を持ち込んでしまうと、さすがに自然環境もたじろぐだろう。しかしそのしっぺ返しは、必ず全て人間社会に訪れるというだけのことだ。

ささやかに慎ましやかに自然と対峙することだ。
われわれが環境!なんて言っているのは「(人間にとって都合の良い)環境」のことでしかない。

たとえばゾーモットに立つと、誰に言われるまでも無くそれが解る。それが解るというだけでもこのラリーの価値はあるのだと思うから不思議だ。

きょうの一枚

2気筒875ccフィアット500Cツインエア ラウンジ275万円。こんなささやかなクルマの存在感が大きい。こんなのが欲しい。


2011/06/21 (火曜日)

「ああ、真っ黒!」

見た?コーノさんのブログ。ボクの20年前の写真。[HP]

きっとこれは八達嶺、パリから北京の最後のビバークでの写真だと思われ。

なんで夜なのにサングラスかけてるんだろうか?
それに、伸び放題の髭もちゃんとしてるし。そこは万里の長城の観光名所。

このあとも何度も何度もこの地を関外に越えて北へ向かったものだった。

それにしても「真っ黒!」いまは黒い部分のほうが少ない。さらに右上は一緒に毎日を旅した菅原さん。51歳の頃。

こうして歳月は人をどのように変えるのでしょうか?美しく年を重ねるということは誠に難しい。

でもこうして一道を貫くということは、それ自体が美しいかも。

きょうの一枚は最近のボク・・・このアイコンでtwitterはじめたので。

2011/06/20 (月曜日)

「船積み車検、ありがとうございました。」

朝、目覚めると涼しいし、雨も降っていないので「せっかく、エアコンの効いた屋内で車検しようと思って準備していたのに」つまりボクは「雨、蒸し暑い」を想定していつものコンテナヤードでの検査ではなく、展示場の1/3スパンをキヨミズノブタイカラトビオリルような思いで、借りていたのです。

でも案の定、午後からは雨が降ってきて、それを喜んでいるボクはタブン変なやつだったのでしょう。

思えば1996年の第2回大会のときは、この展示場の全てを借りて!!あーあ、バブルだったんでしょうか?

とにかく、松山までの長い道のりをありがとうございました。

昨日今日と税関検査に向けての書類の調整に大わらわのSSERの事務所ですが、これもまたモンゴルの楽しい日々のことに思いを巡らせれば・・・。

ボクはこれからの毎日を、厳しいルートブック書きのために・・・忙殺されるのでありました。

明日からは書きながらルートの特長なんかを少しずつ書き記していくことにしますね。

きょうの一枚

モンゴル船積み車検の模様。みなさん、パッキングリストは正確に。帰りはさらに厳しく合わせてくださいね、ホント、宜しくです。

 

2011/06/16 (木曜日)

「塙郁夫スタンバイ!」

塙選手は、パイクスピークス・ヒルクライに向かって出発しました。その直前に、ラリーモンゴリア用マシンのセットアップも終わり、写真を送っていただきました。今週末の船積み検査にはご本人は来られませんが、マシンはやって来ます。ボクとしては、思ったより全長が短そうで良かった・・・なんてコンテナの積み込みの割り振りなど、下世話なことを考えています。

それにしても完璧に自分の方程式というか黄金比というか、マシンに対して頑ななコンセプトを持っているなあ、と常々感じます。そして間違いなくATを選びます。

そして尾上さんと菅原さんのマシンも、確実に進化してやって来ます。
今年のジムニークラスは、さらに熱くなりそう!!

塙選手のマズハパイクスピークスで、幸先の良いスタートをお祈りします!!

2011/06/15 (水曜日)


「はからずも。」

この週末は松山で車検!今回は国際展示場を借りて!!行います。そこでその晩の宿泊はと・・・なんと松山中のホテルが満室。

「いったいなにごと・・・」

と、調べてみても格別のことはありません。

「ああーー!」
と誰かが。
「なにー?」
とボク。
「高速休日1000円が、19日で終了するので・・・」
「フーム」
はからずも「いったいいつ終了するのだろうねえ?」というボクの疑問も、一気に解決。それにしても、もっと告知方法を考えなければね政府も。
そう思っていたら今日のことメルマガが

「東/中/西日本高速道路(株)及び本州四国連絡高速道路(株)から、高速道路の料金に関するお知らせです。」だと。遅くない?続いて

「このたびの東日本大震災により、被災されました皆さまに心からお見舞い申し上げます。東/中/西日本高速道路(株)の高速道路料金につきまして、以下の内容をお知らせいたします。

東日本大震災に対処するために必要な財源を確保するため、平成23年度第1次補正予算及び関連法案が成立したことを受けて、以下の措置といたします。ご理解いただきますようお願い申し上げます。

【 1 】 休日特別割引の地方部上限1,000円の終了について(6/19まで)
【 2 】 高速道路 無料化社会実験の終了について(6/19まで)
【 3 】 6月25日(土)からの休日特別割引について
【 4 】 ETC時間帯割引等について

以下省略。

是非はともかく、予測したように6月18日を車検日としたボクの予知能力、どーすか!?さすがでしょ。ウソです。ただの偶然です。

さあ、いよいよモンゴルに向けて船積み、この夏の闘いがもうすぐ目の前までやってきています。韓国からは1名の女性ライダーを含む、6名のエントリーが。女性はBMW-450です。あとはみなさんKTM。

FUTURE6号、7月10日発行予定にモンゴル試走の模様が10分間にわたり紹介されます。試走用の車の中からの撮影なので、かなりブレブレ・・・なのですが、なんとなくイメージはつかめるかもなので、出場予定の方は必見です。

JECのコーナーも作りましたからこちらもお見逃しなく!!

きょうの一枚

ボクの試走のシートから見える風景。
i-podはFMトランスミッターで、サリナジョーンスとか、時々テレサ・テンとか・・・まあシャッフルなので・・・。石川さゆりもあった。落ちないかって?大丈夫。マジックテープ仕様で・・・消しゴムもマジックテープで最後まで。

ところで、このマシンスガワラ峠へ反対からアタックしようとしたら、これじゃあ登れないことが判明。さてルートはどうなったでしょうか??3つのマルイ玉はボクの大好物のチュッパチャプス。バルセロナが発祥のキャンディで、この包装紙はサルバトール・ダリの作品だって知っていた?



2011/06/14 (火曜日)


「さあて、忙しくなるよ!」

いよいよシーズンがたけなわだ。
まず北海道4デイズが進行中!!
これは故斎木校長に捧げる、そんな4日間にしたい。
そして7月末にはNPOSSERの二つのイベントが同時で行われる。
JAZZ-PICNICというJAZZの野外ライブとキャンプ大会!!
楽しいのでぜひ来てね。

そして久万高原ヒルクライムレース・・・これは自転車のヒルクライムレースで県道を完全占有して開催される。美川スキー場の下から大川峰の頂上まで9.9km平均勾配8%というもの。本当は国道から全区間で行う予定だったが、それは2年目からにしようということで・・・ぜひこちらはスタッフでお手伝いをお願い!!

そしてラリーモンゴリア2011がその直後!!

今回はゴビがメインフィールド!!2日目の砂丘をいかに越えてデューンのなかにあるCPが見つけられるか?そこへたどり着けるか?・・・なんて。

エタップ7では、デューンを越えなければたどり着けないビバークも。ボクタチの試走マシンはオーバーヒートに悩まされ続け、そのあげくサーモスタットははずすし、最後はファンを直結・・・もう回りっぱなし。そのうえウインドウォッシャーノズルを、ラジエターに噴射できるように改造して、何とか乗り越えたもの。

来年には試走用のオフィシャルカーを新しくしないといけないなあ。

そして、そして「タクラマカン」

既に申し込みがあります。

こちらは魅力的なイベント。先日中国側スタッフとみっちり打ち合わせをしました。中国国内で自分のマシンを持ち込み走らせること・・・これはほぼSSERでしか出来ない芸当!!ほんとうです。多くの方から「どうすれば可能なのか?」とお問い合わせを頂くほど。

石原さん!も行こう!!みんなで行こう!!でも今回のタクラマカンは、厳しい部分はなし!探検と冒険だけど、オール舗装でクイックサポートカミオン付!!

きょうの一枚

久万高原ヒルクライムレースJAZZ-PICNICのポスター。イトー君、渾身のイラスト・・・フンガー感がいけています。


2011/06/13 (月曜日)


「あまりに素敵過ぎる決着」

ミッフィーは日本のキャラクターだと思っている方も多いのだが、実はオランダ人作家ディック・ブルーナが生みの親。

そしてサンリオのキャラクター「キャッシー」似ているといえば似ているけど訴訟まで・・・「ミッフィー」の知的所有権を管理するメルシス(オランダ)が、サンリオを相手取って訴訟を起こしていた。子供たちの夢を育むのも、ビジネス・・・ですから。

ところが先週、サンリオとメルシスは和解したという発表があった。

「東日本大震災を受けてミッフィーの生みの親である作家のディック・ブルーナ氏とメルシス、サンリオで互いの訴訟を取り下げることに合意。メルシスとサンリオが共同で、訴訟にかかる費用を被災地の復興支援に充てることを決めた。共同で15万ユーロ(約1750万円)を義援金として寄付する。」というもの、こんな素敵な和解策があるもんなんだねえ。

争いごとは美しくはない。それぞれの正当性を大声で語るほどに醜い。しかし正当や正統を語る力を違うものに役立てる。つまりエネルギーの使い方にも似て、常に解決の第3の道を持っていて欲しいものだと思う。

きょうの一枚

可愛いけど、争うと可愛くなくなる。それにしても法律でこれが似ているとか権利を侵害しているとか判定できるものなのだろうか。

2011/06/08 (水曜日)


「ニッポンはどうする。」

明日、北海道へ向かう。
モンゴルから大急ぎで戻ったのは、そのためだ。

昨日も書いたが、ボクの脳裏にはいつも北日本の緑のグランドと青い空、そこにバタバタと翻るSSERの黄色いコーステープがあるのだ。そこに行くのだ。

思えば2004年ツールドニッポンは長崎を旅立った。
テーマはエネルギーというか、ニッポンの電力事情というものだった。

平和公園を通り、高速増殖炉と名前を同じくする普賢岳を訪ねた。普賢岳は火砕流で人々を苦しめたし多くの犠牲を強いた。普賢菩薩のイメージとは近くない。

人形峠を越え敦賀湾の原発銀座を通った。
フェリーで小樽に上陸するや北上。

寒さに震えた。ガストンは「寒いけど楽しい」とはしゃいでいて、稚内に延々と伸びる大量の風力発電のプロペラを見て「北海道が動くよ」と言った。

そして芦別のA-TECの学内特設SSをこなし、市有地のグラストラックでラリークロスに興じた。ガストンはクラッシュしてリタイアした。ボクのレンジローバーの助手席にチョコンと座って、窓外の日本の風景を堪能していた。

そんな、忘れられない思い出が、いまのニッポンの現実と重なる。その旅は青森に渡り六ヶ所村や東通の原発施設を眺めながら南下した。三沢基地や米軍の施設なども見た。どうもこのあたりにさまざまなものを押し込んでいるんじゃないかと思った。それらの負担の重いのは沖縄と青森じゃないのか。

最後の日は日没寸前の美しい東京タワーの下、東京プリンスホテルに滑り込んだ。温かな宵の気配とイルミネーションの美しい東京タワーが覆いかぶさっていた。

この巨大な都市を、日本中が支えていると言っていい。なにも電力だけではあるまい。食糧もそうだ。水もそうだろう。

東京は自立しては居ない。

貪欲にエネルギーを求め続けるのだが、ひょっとしたら何も実を生産していないのではあるまいか。しかし人間にたとえれば、脳だ。脳はそれを守るためにはほかの器官に酸素を止めても自身を守ろうとするのだという。

ドイツ政府が「脱原発」の方針を閣議決定した。
2022年までに完全に撤廃するのだと言う。
ドイツは敢然と着手した。
日本はどうする。

ドイツの脱原発は日本の事故が背景にあるのは間違いあるまい。社会がちゃんとしていると感じる。日本は、国策という名の下に手を尽くしてこなかった責任は重たい。

メルケル首相は「未来への巨大なチャンスだ」とアジテーションする。朝日新聞の社説には

「今後、脱原発への離陸に成功すれば、ドイツは21世紀の新しい文明と生活のモデルを示すことができよう。事情が大きく異なるとはいえ、ドイツの果敢な挑戦から日本は目を離してはなるまい。

社会全体で熟議が積み重ねられてきたドイツに比べて、日本では、原発は国策だからという理由で政界も学界も思考停止に陥っていた。その呪縛をまず断ち切ることから始めよう。」と結んだ。

きょうの一枚

2011年春夏パリコレクション・・・ということは昨年の秋のコレクションだけど、少し気になっていた。

そのときのコメントだと

「社会の重苦しさや不安を何とか打破したいという願いを込めたような積極的な表現が目立った。久しぶりに、明るい色使いも満載。上質な生地できちんと仕立てた服の価値を改めて提示しようとの意気込みも強く感じられた。写真のルイ・ヴィトンも前シーズンの優美な50年代スタイルから一転、どぎついほどのレトロなシノワズリ(中国趣味)スタイルで驚かせた。ステージには、剥製(はくせい)ふうの大きなトラが3頭。中国市場への意識があるのかもしれないが、それにしてもはっとするような毒気とすごみがある。70年代に欧州で起きた、ケンゾーやイッセイミヤケなどによるアジアンブームに影響を受けたのだという。」

アジアンの時代なのだが、それはニッポンではなくシノワズリなのだ。ニッポンは、どうする。



2011/06/07 (火曜日)



「訃報。北日本自動車大学校 齋木達雄さん急逝」

A-TEC HOKKAIDO 4DAYS 大会副会長でありSSER ORGANISATIONの名オフィシャルとしてご活躍いただき、多くの参加者の皆様との交流の深かった齋木達雄先生は、この5月31日に病気療養中のところご永眠されました。ここにお知らせいたしますとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

「追悼の言葉」

わたしはことあるたびに北海道芦別市にある北日本自動車大学校の、広々とした抜けるような広い空と濃い緑の学校を思い出します。

冬の雪の中を何度か訪れて、暖かい校長室で先生のコレクションを眺めたものです。特にこの数年間というもの2003年のツールドニッポンよりずっと、あのグランドに翻る黄色のSSERのコーステープがあまりにも印象的で、心の中の風景のひとつになっています。

そしてそこに着くとアフリカツインにまたがって走ってくる斎木校長の笑顔がありました。次の日にはT型フォードに火を入れる姿も、なにか特別の日のためにという先生の愛情を感じました。

そうしたいつもと変わらぬ風景が、この7月の北海道4デイズでも、当然のこととして存在するはずだとそう思っていました。

その校長先生は地域のことをとても大切にしていました。多くの公的な仕事をお引き受けになられ、特に北海道4デイズは芦別市の夏祭りに日程を重ねたものですから、ラリーに行きたいけれど夏祭りのために行けないという、ジレンマを語っておられました。

ラリーの最後尾を努めるのが多かった先生は、温泉などでゆっくりしている参加者を時間の許す限りは待って、そして一定の時間になると「早く行くように」と笑いながら叱っていました。モンゴルでもどのラリーでも、いつも一番厄介なところをお願いしていました。

ラリー運営には広い意味で教育的な要素が必要とされます。確かにラリーはライフスクールだ、と言った有名なオーガナイザーもいました。

辛いことや厳しい現実に向き合うためにラリーに参加するのではありませんが、ラリーの日々は決して甘くは無く望むと望まざるとを問わずクリティカルな状況は度々訪れます。おそらく斎木先生は、そんな状況が人間にとって変えがたい経験なのだと語っていたように思います。

これからも、わたしたちは先生の教えを守り、いくつもの困難の時にあって先生を思い出して乗り越えていこうと思います。

どうぞやすらかにお眠りください。

そしてわれわれを、お導きください。

山田徹