「続き」
東京プリンスホテルは、実は徳川家霊廟あとだ。 その隣の増上寺は、ご存じその徳川の菩提寺で葵の御紋があしらわれている。 霧島までのルートに、日光を入れたのもそういう事。 歴代将軍が増上寺に祀られているが、家康公のみは日光東照宮にいる。 遺言からだが家康公は神になられた。。神仏習合である。 とまれ、いまの東京の基礎を築いたのは徳川将軍家ではある。 そして明治政府の事も覗きながら走ろうかと考えた。
そのプリンスホテルは東京オリンピックの年に開業してる。 多くの都内のホテルがそうだが、このホテル実はあまり進化というか改装をしなかった。 ボクはそれが好きで、2004年TDNの時に総支配人に 「このミッドセンチュリーな感じは、素晴らしいですね。」と申し上げて 「・・・」な顔をされたことがあった。
まあ墓の上のホテル!?と言えばそれまでだが、最近のボクには パレスホテルとここが定宿だ。特に車があるときはここがよろしい。 カトランの大きな絵がロビーにかかってるが、 絵そのものは悪くがもっと違うチョイスがあるだろうと思う。 もっと東京を主張してほしいし、もっとミッドセンチュリーな東京をプンプンさせて欲しい。
その2004年とはガストン・ライエが、生涯の最後にバイクに乗ったツールドニッポンだ。 長崎ハウステンボス日航ホテルを出発して「日本のエネルギー」をテーマに旅をした。たとえば長崎平和祈念公園に行ったり、雲仙の「普賢」岳もルートだった。 普賢・文殊などと原子力施設にそのような名前を付けた怒りを普賢岳の大噴火に感じてみれば!?とかって思った。 そして人形峠を越え若狭湾の原発銀座やくだんの「もんじゅ」も眺めた。 フェリーで北海道に向かった。宗谷岬に向かう途中の風力発電群に驚き、 北の大地から南下して青森では恐山を越えた。 六ヶ所村の各施設群を抜け、三沢基地に行く。
福島の二つの原発を眺めて「日本は原発だらけだね」とかって言いながら、 まさに光の洪水の東京にゴールした。 東京タワーの光が、いまも瞼にあって負傷リタイアしたガストンと声を上げて 「すごいね」と言った。 「東京以外全部独立」なんて言った。この都市のために日本があるんじゃない。 東京は全国を必要としてるけど、全国は東京を必要としていない。 それがSSERの20周年記念だった。
さて霧島に向かうぼくらのラリーは、日光を越えて浅間山に向かった。
1955年。ボクの生まれた年に始まった浅間火山レース跡地だ。 日本のモーターサイクルスポーツの発祥の地といっていい。 まだ舗装されたサーキットのない時代だ。 メイカーはマン島TTを目指していた。
そこが1日目のSS会場だ。いまは嬬恋村によって丁寧に管理されている。 いわば徳川霊廟あとならぬ、日本のモーターサイクルスポーツ霊廟跡だ。 こうして、いくつもの不思議な糸を手繰ったり俯瞰したりしながら、 霧島4000とに生命を吹き込ませた。 土佐で長州で、薩摩で、思う事もたくさんあった。征韓論に端を発した?西南戦争のことまで考えた。最後の最後のCPは、西南戦争激戦の地の標識が立っていた。 時代は変わるたびに出来事生んだ。日本のあちこちに「思い」が燃え盛っていた。
ただ4,000kmの道のりを走るだけなら、砂漠でいい。日本の深遠なる文化や歴史を感じながら走るからこそ、得られるものの質が高まる。
「走る」という行為は、純粋で単純なものであっても良い。しかし「旅」である以上は、もしくは主催者がいる以上は、いくつものクエストを参加者に求める。
その密かに語りかける声に気づく者には、また違う驚きや共感を得ることが出来るのである。つまりSSERのいうラリーとは「旅」と不可分であるだけではなく、そういうものだ。
きょうの一枚
1枚目は、江戸時代の増上寺だからその手前が、いまの東京プリンスホテルあたりでしょうか。
2枚目は、ムカデの家紋。菅原さんと、そんな話になったので「百足紋は軍神毘沙門天の象徴として知られているムカデの威力にあやかりたく紋柄に採用されたものと考えられる。また出足の多いことの縁起からとも言われている。」のだそう。
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