Organisation Voice 2007/10

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2007/10/31 (水曜日)

「黒鉄章のお話」

昨年のTBIで異彩を放っていた謎の外国人のことを知っているだろうか??それがクロガネアキラことマイケルだ。いや正確には日本に帰化したから、マイケルというのは過去の名前で、いまはアキラだ。漫画の影響かと聞くと「そうAKIRAだ。」と、使って良いはずはないのだが彼のウエブサイト(世界のアドベンチャーライダーのサイトね)に行くと、少しだけそれらしい画像が(外部リンク)http://www.advrider.com/f...でもまあ名前まで変えて使うくらいだから、その漫画家も怒るまい。

でそのアキラ君。外資の大手に勤めている!!ボクが東京でその大手(本社フランス)金融機関の幹部と会食をしていて「おお確かここにマイケルがいるんじゃないかと思う!」と言うと1800人のスタッフの中から彼を見つけ出し、大手町のビルの最上階で一緒に鉄板焼きを食べた。マイケルは、ボクは会社を止めて旅に出る。シルクロードを辿ってヨーロッパまで行く!!と、のたまわった。ボク「・・・・・」それから彼の計画は熱を帯びてきた。だいいちパスポートは日本人のが良い!というだけのことで帰化申請。

あのたどたどしい日本語で?ボク「あの面接の時その日本語で大丈夫だったんだ。完璧に日本語話せても帰化できない外国人なんてゴマンといるのに」マイケル「ボクモソウオモッタマス。」「・・・」でも「お母さんには泣かれました。」「そりゃあそうだよ。」そんなマイケル改めクロガネアキラ君、パキスタンやらイランを抜けてトルコから北上ローマを抜けてハンブルグから帰国便の船積み。いくらメンテナンスフリーちゅうてもなあというR1100GSはネパールでトラブル。そして写真を見るにつけ「よく生きて還れたよなあ」というようなものばかり。

でも彼の写真の腕前、感性、そして怪しい日本語・・・ボクはとても好きだ。「また四国を走りたい」といっているので来年のTBIあたりでは、あの怪しい日本語に再びお目にかかれるかもだけど・・・外資の超高額の年収を棒に振った彼は、新しい挑戦(ビジネス上のね)に取り掛かる模様だ。ガンバレクロガネアキラ

きょうの一枚
マイケル・・・覚えているでしょ。ちょっとイチロー似の。


2007/10/30 (火曜日)

1バレル93.8ドル、1バレルとは159リットルだったから、ニューヨーク原油の取引価格はというと1ドル116円計算で、93.8×116=10880円・・・1バレルつまり159リットルは10880円、それを159で割ると1リットル68.4円ほど。ウーン。難しい数字だなあ・・・それに税金。ガソリンの税金は平成20年までの特別措置法、そー今のイラク問題みたいな期限立法なのに・・・で、ガソリン1リットルあたり53.8円(内訳は揮発油税48.6円、地方道路税5.2円)この二つを足すとすでに122.2円・・・無くなって行く物はこうした相場に支配されても当然だとは思うが、それにしてもねえ。

まあそんな話はともかく東京モーターショウを見るまでもなく、自動車産業は大きな曲がり角に来ていることは明々白々だ。それだけではなく航空産業も然り、エネルギーの転換を求められるのは何も産業界だけではない。どうしてこの100年間でここまで石油依存の社会を作ったかね!?企業でもどこかひとつのところの売り上げシェアが拡大しすぎると、なにかの時に危険なので、そのシェアダウンを考えなきゃいけないのに・・・。

きょうの一枚
お待たせ!!23rd. SSER 2DAYS CLASSICS
明日締切日です。初冬のダートを巡るハードな3ステージ

The 23rd SSER 2DAYS CLASSICS エントリー受付締め切りはいよいよ明日。急げ!


2007/10/29 (月曜日)

「ポスター完成!!」

えとね、西安-巴里のテレビ放送の番組宣伝用のポスターが出来上がりましたので、どこよりも早く公開!!タイトルは「陽炎の彼方へ・・・21世紀のシルクロードに挑んだ男たち」クーーッ、カッコイイ!!のでありますがメインヴィジュアルは陽炎の彼方というよりは砂塵の彼方・・・という感じではあります。ともかくロプノールの湖底で遭った強烈な砂嵐が、メインのヴィジュアルでございます。もともとこのエリアは「風が強くて危険」という話に尾ひれがついて、砂嵐に遭ってクルマの塗装が全部剥げ落ちた!とか、生きて還れなかったとか(誰から聞いたんだろうね生きて還れなかったって、)と、まあ冒険には絶好のエピソードが満載!!まあ、ちょっと恥ずかしいような気もしますがテレビ見てください。

少しこの西安-巴里・・・のお話を補足的にしておきます。ボクはラリーという競技会を通じて世界のあちこちに行きました。それはもう南アフリカの先から、もちろん北京へ、アフリカ内陸部の国々はもちろんのこと、中央アジアの国々。ラリーという高速移動で見たこれらの国々に「もう一度ゆっくり来てみたいなあ」と思わせるものばかりでしたが、ラリーというプロテクターなしで行ってみると、全く違う素顔を見せるものでした。

ブルーアイランドも2デイズクラシックも、このときばかりと四国に来るのじゃなくて、またゆっくりと来て見たいなあ!と思ってもらうことで、ささやかながら地域貢献の意義もあろうというものだ、と感じておりました。役所で「ラリーのときは良いんだが、普段走りに来るライダーがいて困る!」というお話を良く聞きます。もちろんラリーのときにクローズされてSSとして使うところを、同じように走るのは困ったことなのですが、いつもこの手の抗議に答えを見失います。

それは海外の空港のイミグレーションでよく感じることでもあります。どこの国とは言いませんが熱烈歓迎と書いたゲートの下で、パスポートを投げて返す係官。「仕事ででもなきゃ、二度と来ないぞ!」と思わせるわけです。つまり来て欲しいのか来て欲しくないのかどちらかはっきりしてよ!ということです。

随分話がそれました。要は自動車(バイク)で、思いっきり旅がしたいというのがSSERの原点だったということです。西安には青龍寺という四国八十八ヶ所0番札所があります。これは空海が入唐して学んだ寺です。四国巡礼を標榜したTBIがTDNを経て西安にたどり着き、シルクロードを渡る。その道筋には大きなブレはなかったと確信しています。

ラリーに比べて、今回の西安-巴里はどう違ったのか?毎日の決められた行程、スタート時刻、様々に類似したところばかりです。それはSSERが主催するからなのかもしれませんが。しかし決定的に違うところは、やはりリスクの程度の違いかもしれません。休息日も多いしね。

きょうの一枚
そのポスター、どこよりも早く掲示しちゃいます。こんなおじさんばっかの旅がテレビ番組になるなんてねえ。ちなみにこのBS11開局記念番組には、このほかに「大敦煌」とか「秦の始皇帝」とか、かなり西安系?というか、ボクと同じ志向かも。で中高年向け!ということはやはりボクも中高年にカテゴライズされるのかねえ。


2007/10/26 (金曜日)

「東京は雨」

金曜日の夜、やっと税関からの許可が下りましたので、明日から引取りが開始されます。なんの?って、それはもうこの夏の記憶も薄くなりかねない10月の末。荷物というのはBTOUの帰国便です。本当に引渡しが遅くなったことを深くお詫び申し上げます。引渡し期間は少しタイトかもしれませんが、なにとぞご理解くださいませ。

ここのところ、年々貨物検査が厳しくなってきていますので、今回のことを教訓に今一度きちんとした対応をしていきたいと思います。

さてさて、今週は東京で過ごしました。東京はめっきり秋で午後5時には真っ暗!日が短くなりました。

東京、それは確かに日本の首都。さまざまな思いや意見があると思います。「住むところじゃない」とか・・・いやでもこんな意見もありました。「NYなど海外で暮らす人たちは、東京で暮らしたいという人が増えてるよ。シンガポールやハワイなどじゃないんだって。なぜかって言うと東京には文化があるんだ。」そうです。文化、それはもちろんハワイやシンガポールに無いわけではなくて、でも東京の文化はガラパゴスのように独自の進化を遂げたものです。西安からパリへの道すがら見た文化の連なりとはまったく違う!!日本の独自性、それは異質感でもあり、誇れるものです。なんか東京が急に愛おしくなった今回の出張でした。

今夜は東京の週末の夜で文化交流会?に行ってきます。

きょうの一枚
東京文化の一枚をと思ったのですが、これも東京いや日本を代表する日野のカミオン2008ダカール仕様。モーターショウ北館にぜひお運びください。隣にある最先端のマシンは走行中に自分の上空から見た映像つまり360度の周辺が見えるという驚きの技術が。


2007/10/25 (木曜日)

「トーキョーモーターショー」

忙中閑有り、ではないですが東京モーターショーに行ってきました。BMWJapanへご挨拶に行ったついでなのですが、ひょっとしたらモーターショーのついでにご挨拶?かもな感じになりました。まだ一般公開前のすいてるプレスデイにシメシメと。菅原さんはHINOの2008ダカールのマシンの前にレーシングスーツで、仁王立ち。知り合いが多くて挨拶が大変そうでした。

そんで雑感。モーターサイクルと商用車は北館。ボクはレイアウトが悪いと思う。バイクメーカーはYAMAHAが力はいってました。新しいシティコミューターとしてのモーターサイクルのありようが伝わってきました。トライアンフが思いがけず大きなブース。ボンネビルが光ってました。ドカも頑張ってる!?ところが、あれあれBMWがないじゃん。ということでこれは早速聞くに限ると、BMWで質問その1!!だったんですが・・・その理由はまた今度こっそりと。まあ今の日本のモーターサイクルシーンでBMWを抜きには考えられないっていうのにね。

自動車のブースは、みなさん力が入っていますが、なにかこう全体的に馴染めないというか「お金掛けすぎ!」で、年々造作が大きくなってきて、VWなんかには驚かされるし・・・まあいったいこれだけ経費を掛けるというのは「素晴らしい!」のひとこと!

きょうの一枚
ホンダのブースで、あれっ、誰かと思えば渋川さん!「なんで?広報になったん?」「イヤ開発のメンバーで・・・」「フーン。何開発してるの?」「あっその赤いやつ」というわけで二人で彼の開発したマシンの前で。


2007/10/24 (水曜日)

「東京に向かう旅」

ボクの東京出張は、いつもクルマでした。でも最近は飛行機が多くなった。やっぱり日本国内は高速道路や橋の通行料金が高い。結局飛行機もクルマも同じ金額がかかってしまうんだ。ならば、安全性の高い?時間の短縮される飛行機!が良いに決まってる。ところがボクは、それでもクルマで行きたい。今回も西安−パリを走って感じたのだけど、クルマで走ることと飛行機で行くことは全くの別のものだ。目的地が同じとしてもだ。

アウトバーンは良いなあ、と思う。もちろんただなのが最高なのだが、速度制限が無いのがなんと精神衛生上宜しいことか!捕まる心配のない高速ドライブは、都市間をビジネスで走り回るエグゼクティヴの、貴重な時間なんだろうと思う。走り、考え、仕事をしてまた走って帰る。それも200km/hオーバーでだ。日本の高速道は僕がはじめて走った子供のころと、今と制限速度が変わらない。100km/hで走ってリスクを感じた40年前と同じなんだね。

そんなことを考えながら日本の高速道路を走った。

ロシアの国道は、追い越し禁止が特に厳しい。違反行為は即免許停止2年。だからだれも車線からはみ出さないので安心して?対面通行でもオーバー100kmで走れる。ただし重大事故はしょっちゅう目にする。

人間はこの100年の間、少しでも早く移動する道具の開発に心血を注いできた。やがて安全で確実でなければダメだという概念で、速さに求められる質が変化してきた。さて21世紀は、これより速い速度で環境負荷の少なさが求められている。果たして松山から東京。1台のクルマと飛行機の1座席分の二酸化炭素排出量など環境負荷はどちらがどうなのかしら。

きょうの一枚
ヨーロッパの国道。行き交う車を眺めるのも楽しい田舎道。


2007/10/23 (火曜日)

「なんか、年とったかも」

ロプノールあたりではバイクで転倒しても、たいした怪我もないのに・・・昨晩は飲んでてお店の前で転倒。足首捻挫、右手首激痛!!腰も痛いし、モーあちこちが痛い。しかもどーしてコケタのか検討もつかない。ということは「やっぱり、年かな??」ということで、悲しい朝を迎えた僕はそれでも東京の出張準備。明日から東京。そして何とか週末には貨物の引き取りが出来ますよう・・・・打ち合わせをしているところに西安から写真とお便りが到着。

「困難に差し掛かった時に、日本人の取る態度に感動した」そうで思い当たる節がないのですが・・・あっ、あの砂嵐でみんな進退窮まってるときに、ボクがヘラヘラ笑ってたことだろうか?

まあ、いま西安−パリもBTOUと合冊したフォトブック・・・文章量が多すぎると顰蹙・・・なのですが書いてますので、12月02日東京発表会でね。

きょうの一枚
中国のサポートチームも、長い道のりを西安に帰りました。本当にお疲れ様。


2007/10/22 (月曜日)

「秋だね。」

なんのカンのといっても、季節は巡る。遅くなった?けど秋は来た。ボクはといえばもうすっかり暑くなった夏の前には、モンゴル・ロシア国境あたりで寒さに震えて(モンゴルの試走)で、チョー暑い夏には、またまたモンゴル北部に防寒着を持って出かけたし・・・まだ夏の余韻が強いうちに、氷点下7度まで下がって、カザフで黄金に色づいた並木道の中を駆け抜けてきた。だからちょっとおかしくなった?地球以上に、ボクの季節感は狂いっぱなしだ。

そして、ロッカーを片付けていると、古いベルスタッフのトライアルマスタージャケットを発見。随分と油は切れているけど、往年の旅が染み付いていて懐かしい。なにが懐かしいかって、それはやはりガストン・ライエだ。彼が10月末になるたびに来日して行った、ガストン・ライエ・ミーティング、その毎回にワッペンを作成して参加者に配布した。ボクはそのワッペンをベルスタッフに縫い付けた。それは回を重ねて5枚になった。で、最後のワッペンには、黒いリボンが刺繍されている。

きまってガストンと信州あたりを走り、よく週末のガストン・ライエ・クラシックと名前を変えたSSER-GroupNまでの間には「東京モーターショウ」などを見て過ごした。二人で車を飛ばしては四国に帰ってきていたのが、本当につい最近のことのように思う。

いつの間にかガストンの名を冠したイベントをなくしてしまった。ガストン・ライエ・ミュージアムの計画も昨今の情勢は、進捗を妨げることばかりだ。こんな風に考えると、何か秋は物憂げなばかり。しかしまあ、次の年のことを考え準備するには、いい時候だと思う。

そしてこの秋は、このよれよれのベルスタッフを愛用しようと考えている。

きょうの一枚
そのベルスタッフ。もう何時のころのものかは不明だ。昨今はイタリア人デザイナーの手によって蘇り、LEONの手によって人気ブランドに押し上げられてしまった。おまけに世界的なライダーファッションのブームも手伝って、思わぬブレイク。オールドファンには複雑な思いではある。


2007/10/19 (金曜日)

「クリエイティヴな気」

なんか急に事務所の大改装がしたくなった。というのも今のオフィスに越してきて15年!急速に事務所内のクリエイティヴな気・・・とボクが呼んでいるのですが・・・・・衰えてきたように思うのであります。まあ15年前に施した内装もそのままで「イヤー、いいですねここの事務所」とかって言われる度に「イヤミか・・」と思うひねくれもののボク。

で、例によって「あーのこーの」と考えるのでございますよ。まあそうなったわけはヨーロッパまでバイクで走っていったことにも起因するのではなかろうか、と思ったり。「オー、この会社も来年で20周年や!」と、へんな理由付けを考えてみたり。でも思えばSSERは23年なのでした。

でまあそんなことならいっそ、もっと田舎に引っ越そうかと思っていたのですが、ここんところ、「いや町のど真ん中に引っ越してやろうか!」などと考えてみたり。何の不足もない!どころか広々とした空間のオフィス、停め放題の駐車スペース、そう雨に濡れたことないんですね。バイクだって何台も事務所の中におけるのに。

またまたクリエイティヴな気、を養って新しいことを考え、動き出したいと思う秋の日の午後でございました。

 

きょうの一枚
なんだかひさしぶりに「ほのぼの〜」としたくて四国は四万十川を選びました。それはともかく来年はTBI20周年スペシャル。なにがスペシャルになるのでしょうかね?オタノシミニ。


2007/10/18 (木曜日)

「書いています。」

イマボクは執筆活動中!!それは、12/02に東京で配布しますけど・・・BTOU/西安−パリなどあとTBI、北海道4デイズも含めた写真集。いや写真集と言うのを改めYEAR BOOKとします。んでBTOUは写真中心なのですが、西安−パリはボクのOVをリライトしていて、毎日朝から晩までパソコンに向かっています。で、文字カウントしたら現在のところ37000字・・・「ええーっ」原稿用紙おおかた100枚分!!誰が読むんやこんな長文!だいいち何ページさけると思っているのや!それに写真載せられんやんか!!と自問自答。あーあ、削らんとイカン。で、北海道4デイズは春木編集長に依頼しました。多分こちらも長文の予感。写真集は遂に、「オール読み物」アッ、ゴメン!になってしまうかもです。でもご期待ください。

12月2日東京ビックサイトでお目にかかりましょうね。そこでお配りできる予定ですけん。

きょうの一枚
エルミタージュ美術館。たくさんの写真を撮りましたから折に触れて紹介していきます。


2007/10/17 (水曜日)

毎朝出勤して新聞を読むという長年の習慣が、なんと、突然くずれた。それは西安-巴里から帰って一番変わったことかも。毎日の日経新聞と、日経産業新聞が渦高く積み上げられている。まあなんというか世事に興味がなくなったというのか、とくに経済記事に「ウンザリ」してる。

普通は長く留守にすると、たまった新聞を丹念に読むのだ。同様にTVにも急速に興味がなくなった。いやもともとTVはニュース番組しか見なかったから、ニュースに興味がなくなった!ということかもしれない。いよいよ浮世離れが加速しているのかもしれない。

だいいちテレビつけると、亀田家の話に占領されている。亀田家の経済効果は数百億円だ。マイナスもプラスも同じことだ。有名になるということは、そういうことだ。

でも今朝の日経、まだ見てないけど1面にコラムで「成長を考える」ちゅうのが、はじまっとんやな(亀田家の口調で)ほんあらな、そこにこう書いとんのや。ええか、よお聞けよ。(変換が上手く出来へんから、ボチボチにしとくわ)第9部15年後の日本へ・・・・・「安定」は衰退を生むええこと言うとる。いや書いとるわ。でも読まない。でもぼくの最近の持論とよく似ている。

日本はこの15年間、均衡縮小の一途に在った。失礼を省みずに書けば「ユニクロ現象」と僕は呼んだ。1000円のフリースでいい時代になった。だいたい1000円なんて服を買う単位ではなかった。ソックスを買っても1000円はした。そんな靴下も必ず3枚一組1000円だ。1つをレジに持って言って1000円を出すと、あと2枚もってこい?と言う。

もちろんものが安いに越したことはないが、こんな金額でモノは作れない。作れるとしたら中国の極安人件費に頼らざるを得ない。人件費の安さだけで成り立つビジネスは危うい。それが証拠に中国では人件費は高騰し始めた、当然のことだ。そうするともはや価格戦略が崩壊する。ここ15年の日本の新卒の初任給の伸びはどうだろうか?

翻って、ヨーロッパは成長した。EUは刺激剤だったのだろう。あとはエアバス社の380が成功したら、もうEUはおそろしいことになりそうだ。でも、案外そうばかりではないだろう。

タイトル「安定」は衰退を生む。という言葉は大賛成だ。成長とはやがてやってくる安定のためにあるように誰もが錯覚している。

安定とは老後の夫婦のようなもので、その2人は微笑ましくも慎ましく美しいが、やがて滅びる日が近い。いやそれはそれで良い。滅びる、などと言葉が過ぎた。安定を志向し、マイナス成長を良しとし、清貧に生きるのも日本人には似合わしい。いやそうあるべきかもしれない。まさに武士道の面目躍如たるところだ。

「成長」とは実に醜い。安定した成長なんてあるはずがない。子供が大人になるときもそうだろう。どこかが伸び、どこかが伸び悩む、すると姿かたちはお世辞にも美しいといえない。亀田大毅にもそれを感じる。中国の急成長もそうだろう。日本だって過去にはそうだった。成長期には、どこまでも見果てぬほどに成長するであろう自分に自信がある。負けるなどとは夢にも思わない。亀田だ。このときの自信は醜い。大人たちは眉をひそめる。

と、まあそんな訳の分からないことをいつも考えるようになってしまった。困ったものだと思う。

で、結論。どうもボクは安定を志向していないと思う、同じように成長をも求めていない。でも何時も何か新しい興味と、それに向かうエネルギーの充填だけは怠らない。

 

きょうの一枚
「ミグのシッポ」
ムッホとジャンガルの、ウランバートルへの帰り道。写真の日付によると10月10日だね。まだウクライナあたりだろうか。地面に突き刺さったミグだかスホーイだか!!かと思えば、モニュメントなんだね。詳しいことは分からないので何かの慰霊碑だったらゴメンナサイ。だってお花が供えてあるし。


2007/10/16 (火曜日)

「もうひとつのシルクロード走破チーム、ゴール!!」

ボクたちが西安を出発すると同時にウランバートルを出発したSSERのタンドラに乗るムッホとジャンガルは、10月16日現在ウランバートルまであと345kmのところまで到達。本日中にウランバートルに帰還することが確実となりました。パチパチパチパチパチ!!

ムッホは「今、家に電話して羊の肉と羊の頭を用意しておいて!と頼みました。」とのこと。1日1食で走り切ったとのこと。メシの時間も惜しかったわけではなくて、ロシアの警察に度々停められて大変だったよ!とか言っていました。

そういえばカザフスタンのアルマティで合流したのが、9月19日。そこからでもゆうに1ヶ月。それはそれは、長い長い旅でした。ウランバートル−パリ−ウランバートル・・・20000kmをはるかに越えたことでしょう。

中国パートでは、地元西安のメンバーや新疆の案内人たちで、とても賑やかな冒険行となったのですが、彼らとカザフの国境でお別れしたあと、頼りになるのはタンドラとムッホたち。頼りになり度が違います。給油のスタンドに入ると、飛んできて給油を手伝ってくれます!ボクがバックミラーを調整していると、スパナを持ってやってきます。

タンドラの荷台はカメラマンの3脚を立てるスペースもないほどの大荷物!!撮影をしながらのサポートは大変だったことでしょう。

ほんとうにお疲れ様でした。

とりあえず羊を山のように食べて、ゆっくり休んでくださいな。

 

きょうの一枚
そんなムッホとジャンガルと凱旋門。ふたりはエトワールの観覧車に乗り(夜のね)さらにエッフェル塔まで歩いて行き、パリの夜の観光の正しい?王道を行くのでありました。


2007/10/15 (月曜日)

「久万高原の夜にジャズを聞きながら考えた。」

SSERのオフィシャルとして長年活躍を頂いている山崎さんが実行委員長を務めるJAZZ-LIVEが久万高原町千本高原キャンプ場であった。もちろん駆けつける!どころか、SSERの機材フル動因で応援だ。本当はキャンプをしたかったんだけど、時差ボケのボクはそんな余裕がゼロ。でも千本高原の夜は良かった。素晴らしいイベントだった。価値のあるものだったといって良い。

ジャズヴォーカルは金子晴美さん。ジャズのコアなファンならずとも、知る人ぞ知るヴォーカリスト。熱心なファンは、ひざ掛けをもってダウンを着こんで、ステージ下に陣取っている。ボクはちゃんとみんなに告知して、何かこうSSERのイベントと少しリンクさせても良かったんじゃないか?と思って少し残念だった。赤松カメラマンは、自分たちの事務所スタッフらとテントサイトを作って、なにやら盛り上がっていた。久万高原町の人達も楽しそうに参加している。

ボクたちが恒常的に開催するイベント、それはどういう意味を持ちどういう効果があるのだろうか?と考えた。もちろん言い尽くされているようにイベントとは「祭り」であり、日常の抑うつから開放される「非日常」であり全世界の人々にとっても、大小の違いもあるものの、生活のなかのリズムなのだ。リオのカーニヴァルなどをたとえなくてもだ。日本国内でも年々こうした「祭り」が過去にないほど盛り上がりを見せている。少し過激なお祭りほどそうだろう。やっぱ日常の抑うつ性の高まりなのかもしれないと思う。

松山の秋祭りなどは、結構過激だ。みんなが亀田一家のようになる。乱暴ものになりきり路上で酒を飲み、つばを吐き、無礼講がつづく。神輿をぶつけ合う時には、挑発的な行為は亀田のそれ以上だし、集団的な殺意やらなにやらを感じるのはボクだけではあるまい。子供のころ参加したときに感じたのは、暴力団と市民の交流イベントのようなものだった。

さて話は戻る。松山の秋祭りの交流イベントはともかく、ボクのように非日常が日常で、日常が非日常のような生活をしていると、心の動きとはいったいどうなんだろうか。今度はそんなことも考えてみよう。

SSER 2DAYS CLASSICS・・・そんな久万高原の秋祭りの「獅子舞」に登場していただいたり・・・数ヶ月前からの懸案の「カレー対決」の併催を企画してみようかな?と思っていたり。お祭りをお祭りらしく、それにしても23年目のSSER・・・遅い秋のようですがまだ紅葉のはじまってない久万高原。秋は11月中ごろからはじまりますよ。

お知らせ
SSER ORGANISATION 2008 発表会 12/2(日)東京都内で開催予定。2部制になる見込み。詳細はまた近々発表いたします。

 

きょうの一枚
菅原さん、ヤマハ・ライノ、ファラオ走行。美しい砂丘の連続はエジプトならでは。そういえば敦煌のデューンも大きかったなあ、っと。


2007/10/12 (金曜日)

「中国・カザフ国境で会った若者」

中国西域から西に向かう国境はそう多くはない。キルギスに向かおうとすれば天山山脈の7000m峰、タジキスタンに向かうならパミール高原の7000m峰が聳え立つ。もちろんパキスタンやインド、ネパールに向かおうとすると、それこそ名だたる「神々の座」8000m超の高峰が雪煙を上げている。そういえば西遊記で玄奘三蔵はどこを越えてガンダーラに入ったのだろうか?チベットのラサからは最近(といっても30年くらいは経つだろうか)友誼道路というのが開通して、約800kmばかりで、おそらく世界で最も高い峠(のひとつ)を越える。20年位前にバイクで行こうとしたことがあった。

中国からカザフスタンには有名なイリ川が流れていて、広大なジュンガル盆地に木々をはぐくみ、あのアルマティを美しい都市にし、やがてバルハシ湖に流れ込む。この広大な乾燥地帯を緑溢れる平原にしているのは、ひとえにこの川の恩恵だ。清朝の乾隆帝によって平定されたこの地域は、イリ将軍府がおかれ軍事の拠点となった。いまも66師団というのが置かれ、イーニンの町は西の果ての要衝となっている。なぜならイリ川流域は、東西の人や物の流れの大きい場所だったからだ。それ以外の国境では大軍を率いて攻め込む、というわけには行かなかったからだろうとも思う。

そのイーニンからカザフに向かう国境で、1人の日本人の若者に会った。
「こんなところで日本人はいないだろうなあ」
と話している矢先である。

そういえば、この国境は中国から西に向かう大きな国境ではあった。国境に到着したのは午前中だったので、何とか昼までには出国して!と意気込んでいたものの、たいした問題もないのに「昼休み!」まだ昼前から3時半まで。これは両国の時差の都合らしいが、大量のトラックやバスの運転手たちは慣れているのだろう、文句ひとつ出ない。

その日本人の若者はバスに乗っていた。僕たちのところにニコニコとやってきて、これからウズベキスタンに向かいます、と言っていたように思う。もちろんウズベキスタンが最終目的地ではなかろうけど「危ないから南回りの一人旅は止めたほうが良いんじゃないか?」とアドバイスしたが、ニコニコとバスに乗っていった。おそらくアルマティ経由なんだろうなあ、とぼんやりと若者のことを見送った。

そしてその若者のことは、最近のイランの邦人学生拘束のニュースまで忘れていた。もちろん別人なのは間違いないんだけど、こうした若者が1人で旅をしているというのは、なんとも頼もしいような、でもなんとなく不安なような複雑な気がするのだ。

出来ることなら、異文化がひしめきあうあのエリアに、1人で若者が普通に旅行できる日が来て欲しいものだと思う。

きょうの一枚
これがその有名な?嘉峪関故城です。西の果て万里の長城の尽きるところ。ここから西には魔物くらいしか棲んでいないと思ってたから西遊記は面白いのですねえ。でもまだここから先にも玉門関とか長城の跡らしきものもあるのですがねえ。


2007/10/11 (木曜日)

「R1200GS-Adventureのことなどを少しレポート」

ボクの手元に3台のアドベンチャーが届いたのは、2007年7月9日。北海道4デイズやら西安への出張やらの谷間。でちょうど今日でほぼ3ケ月。もちろん西安−パリに出かけるためのものですから3ヶ月のうち1ヶ月以上はコンテナの中で船やら貨車やらに揺られて過ごしたわけです。

10月5日にパリのCDGにほど近い日通のコンテナターミナルで、帰国のための預け入れをした時点では、約14000kmになっていましたから、松山で慣らしを400kmと横浜まで800km合計1200kmを国内で走行していましたから、12800kmが西安−パリの走行距離といえます。ただし途中でトリップが動かなくなっていた時もありましたから・・・でもボク的にはこんなに短時間で、これほどの距離をバイクで走ったのは、間違いなく初めての体験です。なぜなら長年手元にあるR80G/S PDも、いまだに走行距離計は14800km、HP2は2000km(うち1000kmは春木さんが乗ったし)。特にこの10年はツーリングにも出かけたことがないくらいになっていたのは事実です。で今回一念発起した原因のひとつは、やはりこの新しいマシンの存在であったことは事実です。

というなれば、これほど乗ったこのR1200GS-Adventureのことをレポートしておかなければなりません。でもおそらくこのバイクは、多くの方々がさまざまなインプレッションを絶賛とともにお書きになっているので、ボクはといえばちょっと違う視点で書かなければなるまいか?と悩みつつパソコンに向かいます。だいいちまだ左手は、ワルシャワ市内に向かう渋滞辺りからしびれていて、まだその記憶を呼び覚ます奇妙な感触が、旅のボリウムを実感させています。

結論的に言えば、工場出荷時で世界1周に出られる!という歌い文句は、概ね正解です。こんな特殊な機能を持ったバイクは無いと思いますが、モーターサイクルジャーナリストではないボクは、ほかに世界にどのようなバイクが存在するのかは良く知りません。ただし真にチャレンジングな世界一周に出かけるならば、若干のカスタマイズが必要でしょう。いやそれもアスファルトと良好なダートロードのみなら不必要なことですが。

まずタイヤ。我々はコンチネンタルのTKC80を横浜のホテルで装着して西安に送り出しをすることにしました。4台のR1200GS-Adventureのために用意したのは、ホイールコンプリートのTKCを前後各1本、タイヤのみ前後各2本。さらにヨーロッパ用にトレイルアタックを前後各5セットを用意しました。風評ではTKC80は、耐摩耗性に難ありと聞いていました。そんなことも手伝って船積み前夜のタイヤ交換としたわけです。タイヤのインプレッション等は後述とします。

マシンの仕様は各車基本的には同様ですが、若干ずつの差異はあります。特にうち2台はノグチシートが奢ってあり。ボクのは特にシート高が高くて、素晴らしいパフォーマンスなのですが、足つきの悪さにひと苦労しました。またこれにあわせてハンドルポジションも上げてありましたので、180cm近い身長と相応の体重を誇るボクにも窮屈さはなく、ライディングポジションはベストでした。特に膝の曲がりも緩和され、スタンディングも問題なく!大きな足のボクはツアラテック製のギアレバーエンドピースで、シフトのタッチを向上!これは楽でした。

それ以外はほぼストックのままでしたが、若干のプロテクションパーツは純正品やらツアラテック製やらを装着。防眩バイザーをヘッドライトにつけなければ夜間走行は眩しいので装着。その場合のヘッドライトプロテクターは純正品でなければだめです。僕はツアラテック製のために、プロテクターのアクリル面の掃除が出来にくくて、ソートーの光量がスポイルされる羽目になりました。またメーター照明もスクリーンによって反射されるので、疲労の原因となるために対策が必要でしょう。

全体の印象としては、マシンに助けられた13000kmであったことに間違いはありません。最初はその巨体に「どーなるべえ」と思ったのでしたが、サスの絶妙さ直進安定性の高さ、突然現れる舗装路でのギャップやアナッポコでの対処の良さ。そして特筆は、いざとなれば軽がると180km/hを越えるまで加速を続けるエンジンとそのボディバランスの良さ。

フルタンクでパニア満載のフルロードで、どんどん加速するほどに安定性を増すのには驚きます。パニア装着時は180km/hに規制されていたのですが・・・すいませんアウトバーンでは200km/hをマーク。そのまま航続したいと思わせる辺りは、なまなかのバイクではありません。

またスクリーンに身を潜め、グリップヒーターを最大にして、氷点下7.5℃まで下がったカザフステップを150km/hで突っ切るという荒業もこのマシン以外では考えられません。

しかもこのマシンは、数日前まではタクラマカンの砂を超え、泥沼と化したロプノールから脱出し、またサンドベッドの広がるトルファンへの道を越えてきたとは想像しにくいではありませんか。

さらに驚かせましょうか。それは60歳と57歳の2人のライダーはオフロード走行が初体験だったということです。また60歳のライダーは1日で350km以上走行したことはないのです。頼りはまさにマシンのもつおおらかな性能なのでした。

タイヤに助けられた部分も少なくはありませんでした。コンチネンタルTKC80は良く耐えに耐えてくれました。10000km無交換でも一向に構わないし、パンクの心配もまず皆無といって良いでしょう。若干、砂の中ではフローティング性が悪いのと1.5kg/m2以下ではリム側にも問題があるのか、しばしばエア抜けが起きました。どうも深い砂の轍ではリアへの加重移動が少しでも遅れると、いとも簡単にフロントは轍を噛み、その巨体を支えたり立て直すのは体力勝負となって、アクセルを開けてクリア!というわけには行かないのでした。

そんなこんなでさんざん砂の上に投げ出されたのも事実です。その際の問題も少し。まず純正のパニアケースが弱いようです。パニアのキーシリンダーも脱落します。すぐに変形するパニアの蓋は、直すのも一苦労です。パニアの補強は絶対条件でしょうね。これをいい加減にしておくと、高速走行時にパニアの蓋が突然開くというアクシデントも起きます。アウトバーンで中身を撒き散らせばどれだけの事故になるでしょうか?さらにオプションのフォグも、一度も点灯しないまま装着していた2台とも脱落。取り付け方法や強度などに問題がありますね。またエンジン周りのガード類も、少しレベルアップしたほうが良いでしょう。砂の中の転倒なのに1台はヘッドカバーからオイル漏れ。よく調べてみるとエンジンガードとの干渉でわずかな亀裂が生じていました。これは即交換。

リアサスも心配なところでした。1台が早くからオイルをにじませていましたが、やはり8000kmもたなかったようです。車外品をスペアにと考えたのですが、ホワイトパワーもオーリンズもまだラインナップされていなく(ツアラテックの本社のカタログには掲載されていたのですが・・・)、なんとか手持ちで間に合った純正品1本をスペアで持ち込みましたが、この1本のみでなんとか走りきることとしました。

スペアパーツは左右のヘッドカバーをはじめイグニッション系、エレメント類程度。エアエレメントはマウント位置も良く、エアで吹く程度で充分でした。なんとレバー類は1本も折れていません。多めに用意したプラグ類やイグニッションコードもただの重しでしかありません。つまり大量に持ち込んだ交換部品は、右のヘッドカバー1個のみの交換でしたから、このマシンの素性が分かろうというものです。

トラブルと言えばその程度なのですが、最大はやはりイグニッションのイモビライザー?のトラブル。突然エンジンが始動しなくなり「EWS!」というワーニング表示が・・・早速取説を見てみても、その表示は何を意味するのかが書かれていません。「おそらくサイドスタンドSWのトラブルだろう」とか喧々諤々。

日本に衛星電話して、結局はキーを認識していないということがわかりました。純正のキーをそのマシンが認識せずに拒んでいる!など、悲しいお知らせというほかはありません。バッテリーターミナルをはずすと15分ほどで車体内に残る電圧が0まで下がります。そうするとエラーのログがクリアされて再始動が可能なのですが、この作業を長い旅で繰り返すのは容易ではありません。そのうちマシンを止める時はキーはそのままでキルスイッチのみで切ります。でもそうしていればバッテリーが上がります。

中国とカザフスタンの国境の緩衝地帯を、なんとこのマシンを押して行かなければならなくなったときは、理不尽さに怒り心頭でした。また同じようにカザフロシア国境も、押していく羽目に。

何とかスペアパーツを日本に頼むのですが、ロシア税関では不審な電子部品として通関されませんでした。その後、旅はミュンヘンさえ経由したのですが、どうしてもこのパーツは手に入らないままでした。

それでも対策は自分たちで見つけ出しました。キーの情報をほかのマシンで認識してもらうという手段ですが、このことに関しては詳細に書くことは問題があるといけませんので控えることと致します。

そしてサンクトペテルブルグで履き替えた例のコンチネンタル・トレイルアタック。トレイルとは名ばかりのトレッドパターンのデザインが可愛らしいのが気に入りましたが、これによる劇的な変化はマシンそのものが変わったかと思わせるほどでした。特にフロントのグリップ感の向上は、なんと言えばいいのか、長くロードバイクに乗ったことのない我々には異次元の経験でした。アウトバーンで雨に降られた時も、一向に変わらぬ安定した性能で、タイヤの技術開発は凄いことになっているのだ!ということを実感。だって僕の知る最後のロードタイヤはドカに履いていたファントムだし・・・30年前のね。

そんなこんなで、13000kmを走りきったこのバイクは、ギア比に関しては少し意見が分かれる局面もありましたが、とにかくトータルに評すればエンジンや車体に関しては実に完璧。その驚異の耐久性、絶賛に値する全天候性能。そしてライダーの未熟さと体力の無さをカバーするコンフォートぶり。その疲れさせないという最高の性能は、メンテナンスフリーもあいまってホテルでの滞在時間を無駄にマシン整備に要しないあたり、50代の無謀な冒険者たちの強い心の支えでもありました。一部には「もっとメンテナンスしないと・・」という意見もあるにはありましたが。

こうしたハードな旅に選ばれるマシンは、その多くをこのR1200GS-Adventureが占め続けるのではなかろうかと思います。今回のルートは、特に中国からカザフと、全くこうしたツアラーの走りにくいエリアでしたから、同じ志の仲間に会うということはありませんでした。

素晴らしいマシンと出会えたこと、そして次の旅に向けて徐々に進化させていこうと思う部分があること。日本の道では大きく重たいマシンですが、それでも世界に飛び出せるマシンを手にして走る喜びは、大きいものがあるでしょう。

そしていざ世界を走る!となればこれほど頼りになるマシンは無い!と胸が張れることでしょう。

最後に一言。憧れのバルト三国エストニアのバルト海を見るアップダウンとキンクの続くワインディングで、ボクはマシンとタイヤと道路の織り成すえもいわれぬ一体感を得ました。40年近くバイクに乗ってきて、これほどまでのライディングの喜びを知りませんでした。フランスのアルザス地方では土の匂いに驚き、シャンパーヌの村でモエの甘い黄金の輝きを感じ、こうした今回の旅の感動は、やはりこの1台のマシンによってもたらされたということは、絶対的な事実であったと言えます。

次の旅は、はて、どうしようかな。


2007/10/10 (水曜日)

「浦島太郎です。」

1ヶ月の旅の間に、日本は変動していました。まー変動?というほどのものでもないかもしれませんが。ユーラシア大陸の奥地から、それでもメールや写真を送る僅かな間にインターネットでは「安倍首相突然の辞任」のニュースが・・・確か敦煌辺りだったでしょうか?

「おーい、安倍さん辞めたみたいだねえ」
「うそ、へーっ」
「ほんとう?」
「さあねえ」

自分たちの旅で精一杯のボクたちには、いつもならとても気になるニュースなのに。やはり世事に興味があるということは、そうとうに暇で退屈しているに過ぎないのかもしれませんね。そして帰国後に知ることとなる突然の辞任の経緯に「唖然!」とします。

「やっぱりほんとうだったのか」

福田新総理の誕生も知るには知っていたのですが、ロシアの田舎辺りで適当に誰からか聞いた情報程度では、「らしい」という程度のものでした。

結構、安倍さん頑張っていたのにね。やはり日本はおかしい!と言わざるを得ません。絶望感すら覚えます。というのは、仕事の内容、実績を評価するシステムが機能せずに、雑事や風評や、まあ簡単に言うなら足の引っ張り合いに終始して、高い禄を食む人々が、政権などの中枢にいるからではありませんか。ちょうど幕末の江戸城内の様子にも似ているような気がしますが。

日本のこのバブル後の15年は、全く成長をしていない状態が続いています。経済が成長していないばかりか人心も同じく停滞したままです。つまりまだ20世紀末のままの日本なんです。

ボクが浦島太郎だ!と言っているのではありませんぞ。世界を地を這うような旅をして感じたのは、実は「日本は浦島太郎じゃないのか?」ということです。世界は新しい時代を切り開いていますよ。

きょうの一枚
モンゴルからお手伝いに駆けつけたムッホとジャンガルとタンドラ(クルマ)彼らは今パリを出発してウクライナを走行中。ダレよりも過酷なウランバートル−パリ−ウランバートル22000kmを挑戦中。ただしタクラマカンなどの中国パートには参加してないので、クルマはわりと損傷なく走ってるね。


2007/10/09 (火曜日)

「時差ボケです。」

帰国しました。約1ヶ月かけて西に進んだものをたった11時間くらいで帰ってきてしまいました。移動速度と時間。いつも思う難題に、今回も時差ボケで答えるしかないのでした。

さて旅の道中記のOV、読み返してみるとかなり赤面しますね。旅にある情緒とちょっと異質な精神状態がなせる?業なのか。

いやそれにしても1ヶ月間にも及ぶライディングの旅は、鈍く重い澱のようなものを体内に蓄積させていて、それが時差ボケとあいまって、かなり鈍重な身のこなしになってしまってます。

やはりよる年並みには全く歯が立たないのか、日頃の精進不足なのかと思い悩むことしきりです。

それでもこの旅を振り返って、どのようにまとめて、どのようにレポートして・・・と考えております。また興味のある方はお気軽にお声掛けくださいな。

そうそう、それとヨーロッパはバイクブーム!!パリ市内は最近の自転車優遇政策も手伝って?とにかくスクーターからBMWまで、バイクがこんなにたくさん!!と思うくらい走ってるし停まってる。ファッションも完全に「ライダース」な感じ。パレドコングレのD&Gじゃ、バイクウエアのお店かと見紛うばかりですな。

特に目に付いたのはピアジォのF2輪の3輪スクーター!!テレビでも特集をしてました。またまた日本では保安基準が問題なのだそうですな。

いずれにしても新しいパラダイムに次々に取り組むヨーロッパ!と完全に取り残された日本。単に「ユーロが高い」のではなく、成長に取り残された・・・という感じなのであります。

パリでは、パリコレが始まり、モーターサイクルショウやってたし、ラグビーのワールドカップパリ大会も大盛り上がり。カフェのギャルソンもラガーシャツ着てるくらい!!

もう一度言いますね。

ユーロが高いのではなくて、日本が縮小していたのです。さあ、巻き返しを頑張ろうね。


2007/10/04 (木曜日)

行程24日目 ストラスブール−パリ 500km
「パリの空の下で」

朝ストラスブールの町の美しさに驚いた。豊かな川はたっぷりの推量が滔々と流れ、美しい町並みに、ガウディもビックリのカテドラルの尖塔があたりを睥睨しているが、優しさに包まれている。この街は第一次世界大戦まではドイツだったらしい。たぶんそのころはストラスブルグと呼んでいたんだろう。なるほどドイツ風の建物が川の東側に、フランスが西側に。新しいものが余り見えないのも良い。川は町の中を二つに分かつように流れている。川岸は快適そうだし、花々や木々に包まれていて真に美しい。

ただし市内交通のトラムは、新しいデザインでミスマッチなものの機能性は高そうだ。

今日は高速道だけだからと、のんびりしていたらいつの間にか日が傾いていた。

パリではコンコルド橋でみんなミスコース。感激のゴールはバラバラになってしまって、ボクはコンコルドのロータリーを一人で何度も何度もグルグルと、バターになりそうなくらい回った。

それでも長い長い旅は凱旋門で終わりました。

これからこの旅の記憶が、深く心に残るものになった。

ホテルの窓からは、パリの屋根が広がっていて、たくさんの町を見てきたのだが「やはりこの街は別格だ」となぜこの町に惹かれるのか考えた。

やっぱりエスプリかなあ。

また。

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2007/10/03 (水曜日)
行程23日目 ミュンヘン−ストラスブール 360km
「村のレストランで夢のような時間。」

旅はもう終わる。ここまで毎日毎日、疲労困憊+飲酒酩酊状態で書きなぐった旅の日記をお読みいただいた皆様、感謝にたえません。推敲はおろか校正もしなければ、読み直しもしなかったものだから、後で読むとおそらく変なことになってるだろうと思います。帰国して余裕があったらばフォトエッセイブック?にしてやろうかと不遜なことを考えています。写真もあまり撮れませんでした。途中レンズが壊れていたということもありましたし、バイクを止めた時にカメラを取り出すのはなかなかでした。

とまれまだあと1日。本当は今日パリに着く予定で、ボク的には夜のパリにリンドバーグのように着くので大いに結構だったのっだが、みんなの意見で昼間のゴールが良いのだそうでありますな。感激して涙が出たりした時に、昼の明かりの下では恥ずかしいじゃん。

さて今日のルートは、ミュンヘンからシュツットガルトまでアウトバーン。BMWからポルシェの街へ。休日の今日はシュツットガルトまでの美しいライン川まで至るルートは。オートバイたちのパラダイス。クルマもオープンエアを楽しむエンスーなマシンたちが、快音を響かせて緑の丘陵の極上のワインディングを、大人として愉しんでいました。

その村はずれで、看板を見つけて飛び込んだレストランは、木々に囲まれていて素晴らしいものだった。客のほとんどは地元の夫婦と、小さな子供連れの家族たち。大きい樺の木の下では、子供たちの砂場があって、木漏れ日の中で幸福な家族を見ながら、こちらも満ち足りた気分のランチとなりました。

料理も素晴らしく、温められた皿に、フュメドポワゾンのスープのなんと上質で旨いことか。

この空気、気温、子供たちの遊ぶ姿、午後の豊かな時間を過ごす。この旅のかけがえの無い思い出となりました。

明日はいよいよパリ。今夜はストラスブール。

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2007/10/02 (火曜日)
行程22日目 ベルリン−ミュンヘン 620km
「祝祭の日」

もともとの行程ではベルリンからケルンへ向かう予定だったのだが、8月のラリーの時にウランバートルで交わした約束を果たすために、みんなに無理を言ってミュンヘンに変更した。朝ベルリンのブランデンブルグ門に出かけて気がついたのだが、明日は「統一記念日」その式典の設営で大忙しだ。

ドイツでもっとも大切な記念日で祝祭の日だ。

ミュンヘンでは、さらにオクトーバーフェスティヴァルで異様なほどの大騒ぎとなっていた。市民たちは民族衣装に身を包み、大騒ぎの夜を過ごしている。旅人としてはこういうタイミングに訪れることが出来た偶然の?幸運を喜ぶべきだろう。

そうしてミュンヘンにはやってきたものの、その約束を果たすことなく静かに祝祭の日に街を出ることにしようと思う。いやこの町にやってきただけで約束の大半は果たしたように思う。

夜に光り輝く4シリンダーのタワーを目にした時、それは僕たちとの旅とは何の関係も無く無機質で何かこうざらっとしたものを感じたのも事実だ。

それは強い思いを抱いて臨んだこの旅の、最大の選択だったバイクから起因しているのかもしれないと思う。

2台のマシンは西安からの距離表示も、もちろん速度表示も止まったままだから、お得意の航続距離や燃費なども表示されない。

長い旅にこれはつらかったろう。エンジンの回転数で速度を感じながら走るか、ただ気温だけを眺めて走ってきたのだ。

1台は件のイモビライザーのトラブルで、エンジン始動が大変なままだ。
中国カザフの国境や、その次のカザフとロシアの国境のバッファゾーンを押して越えてきた。このつらさも筆舌に尽くしがたかったろうと思う。

しかしアウトバーンを、このマシンとコンチネンタルのアタックを履いて走る快感は、たとえ様が無かった。素晴らしいと思った。オールラウンダーとかマルトパーパスとか安っぽくこのマシンを呼ぶのはつまらないと思った。アドベンチャーと呼ぶのもどうかな?

走行してる間に、僕たちの旅はいよいよフィナーレに近づいた。

最後の行程でパリに向かうのだが、途中でもう1泊して、あさっての午前中にパリ到着としよう。

とまれドイツの統一記念日おめでとう。素晴らしい国です。

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2007/10/01 (月曜日)
行程21日目 ワルシャワ−ベルリン 610km
「ワルシャワ、ベルリン。その複雑で深遠なる距離。」

今回の旅は、僕のこだわりの「都市」コレクションだ。サンクトペテルブルグからリガ、そしてワルシャワからベルリンにやってきた。いずれ劣らぬ名だたる都市であり、訪れる者の心を平穏ならしめない。

旅人というものは、早く旅立ちたいものなのに、ワルシャワの旧市街の魅力に足止めを食ってしまった。なんということだ、この心に響く豊かな感情は。

それはこの町が「祈りの町」であるということに気づいた。

静かで敬虔なる祈りの姿が、街のあちこちで見られる。たとえば広島や長崎に似ていると思った。しかしこの国の人々は、戦争も人をも憎んではいないように思える。ただ静かに美しい祈りの時だけが降り積もっていた。

旧市街の大部分は、撤退するナチスが、徹底的に破壊した。どれほどの憎しみがあればここまでと思えるほどだ。旧市街に建つ16世紀のカトリック教会を覗いてみた。ステンドグラスにはひっそりとPとWを組み合わせたポーランドレジスタンスのマークがあしらわれていた。町のそこかしこで、このマークは見られる。ここにも戦後は見え隠れする。

それにしても毎日の都市間の移動の距離は、決まって600kmから700kmなのだ。

ベルリンとワルシャワ、この二つの都市は東京と大阪くらいの距離感で、常に対峙しそのほどんどはゲルマン民族の強襲を受け続けていた。

それにしても思う。平和であるということは美しい。こうして陸続きに東の果てからやってくるということは、おそらくそういうことを身体で感じる西遊記だったんだろう。

あれだけの暗い過去を乗り越えて、ヨーロッパはひとつの屋根の下に、ということを実現させた。ドイツの犠牲的な貢献がそれを実現させたといって良い。

翻ってアジアはどうだろう。「国益に叶う」などと耳障りの良い言葉は、自分の家(国家)ばかりの利益を追求する街一番の強欲親父みたいになってるんじゃないか、ヨーロッパのつまりEUの精神の前に、僕たちアジア人は考えさせられることは少なくないはずだ。

で、なんのことはないEUは経済的に成功し安定している。

旅はフィナーレを迎えるにふさわしいほどに、心が満ちてきているぞ。

ところで旅人たちはまったく元気だ。大量に用意した医薬品の入ったダッフルバッグは、ただの一度も開かれたことも無いのである。

 

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