試走隊レポート
6月24日試走6日目
「道について考えた。」
試走の旅は実に忙しい。GPSの自記記録デバイスは確実に作動しているのか?ルートはこれで合っているのか、確実なルートブックが記されていっているのか。そういうことに加え、マシンのコンディションや燃料の計画、食料の問題、停滞は許されないハードなスケジュール。しかしそんな中でも、たくさんのことが頭を巡る。だから事務所にいる時は最近は書けなくなったOVもゴビ砂漠の中でなら書きたいことがわんさか出てくる。アイデアもたくさん!帰ったらこんな企画あんな企画と、覚えていたらたぶん今年の下半期も忙しい日々だろうと思う。
さて、今日はそんな中でひたすら考えたことがある。試走の時に普通に考えるのは、距離と時間との相対性理論?ラリーは相対性の時間に支配されている。でも今日はそれに「道」について考えた。イタリアの名画「道」ジェルソミーナを小学4年生のころ?に見た僕は、それいらい「道」は常に切っても切り離せないワードとして脳裏に仕舞ってある。
昨年西安で菅原さんは「書を買ったよ。なんて字を買ったかわかるかな?」とボクに聞くではないか、僕は100%の自信で「道でしょ。」と答えれば良かったんだけど、「いや?わからないですよ」なんて言ってしまった。菅原さんが買った書は「道」だろうというのは容易に気がついていた。
その楷書で書かれた自信に満ち溢れた道は、菅原さんの人生を考えさせられるのに十分だった。「道」という字は、ROADなんかではない。しんにゅうに軍を乗っければ運ぶになり、フルトリを乗せれば進むになる。山を載せれば辿るになって、とにかく移動する足を示しているのが、シンニュウだが道とは、首を乗っけて進んでいるわけだから、まあ人生を掛けているという意味でもある。
一つのことを人生の中心におくと、相当の取捨選択をしていく。その一つだけにこだわった道は、ときに銀行が、いやもといナビゲーターが「この道で合っていますかね?」などといわれようと容易に受け入れられない。それはやはり、たくさんの中から一つだけ選んだ道だからなのである。
孔子は40にして惑わず。と説いた。つまりそれまでは迷いの連続で、たくさんの道が光って見えた。40で残り人生とわずかな手がかりをつかみかけたわが道を決めなければならなかった。50にして天命を知る、とはその道が10年掛けて自分の人生そのものだったと確信できることだ。して60にして耳したがう。やっと60歳にもなって人の意見に耳を傾けるようになった。まあそんな話。
ボクは、その昨日書いた菅原さんや尾上さんたちの、まあこの二人がジムニーで対決し続けている姿が面白いのですが、それぞれが選んできた道に人生のほこりを掛けて戦う姿をテレビ化できないかなあと思っているんです。捨ててきたもの、得たもの。事業とは、人生とは。軽自動車の決められた枠の中で、人生の達人たちはどのような世界を描くのか?二人の車にカメラを搭載して、相手が可視範囲に入れば自動的にスイッチが入るとか?
とまあ今日はそんなテレビ番組の企画を考えていました。○木さん、この話の件、あとは頼みましたよ。ディレクターは僕がしますから。 |