篠塚建次郎がラリーの最後尾を走る。それもリタイヤは絶対に出来ない環境で−。かつて日本のラリー・エース、若い頃はライトニング建次郎のニックネームで日本国内ラリーを“総なめ”。パリダカに出場するようになって日本人初優勝。その“シノケン”がラリー・モンゴリアでカミオンバレーを運転することになった。
カミオンバレーとはご存じのように、落伍者を収容しながら一番後を走る。このトラックがいるので、コース付近で動けなくなった参加者にはとても心強い。シノケンさんもパリダカで引っ繰り返ったり、トラブルを起こしてリタイヤすることはあっても、カミオンバレーに乗ってビバーク地へご帰還のシーンは見たことがない。
最も速い車に乗り、優勝戦線を駆けて来た人がカミオンバレーを運転する切っ掛けは、S S E R の山田徹さんと日野のトラックでお馴染みの菅原義正さんの“悪だくみ”からだった。
「篠塚さんがカミオンバレーを運転すれば面白いと思う。いつも先頭ばかり走らないで、そろそろ後ろを走る悲哀を味わうのはどんなものだろう」
「篠塚さんの颯爽とした走りでラリーを始めた人は多いし、ファンも沢山いる。同時に篠塚さんも多くのファンに支えられてきたところもある」
そんなことで菅原さんが口説き、山田さんが会って口説き落としたようだ。私も80年代後半からパリダカをカバーし続けてきたし、砂漠でのテスト走行やモロッコ、チュニジア、ケニアのラリーなど、シノケンさんの行くところへは何度も同行している。
「散々、ラリーを楽しんできたんだから、今度は勝ち負けではなく、ファンに別の意味で楽しんだり、お返ししたらどう…」などと、余計なお世話だが篠塚さんに電話した。
「運転する車はなに?トラック?カミオンバレーなの」と最初は驚いたような返答だった。
他のラリーから出場要請が来ているとも言っていたが「シノケンさんには広大な大地が似合う。湿地帯をのたうつ建次郎を見たい人は少ないんじゃない?」などとも話したことを覚えている。
ある意味で役者が揃った。ワークスで優勝を競ったシノケンさん。日野レンジャーを駆って日本人トラック・ドライバーを代表する菅原義正さん。ジムニーでプライベート参戦を続けた尾上茂さん。パリダカ、パリ・モスクワ・北京などへの出場後にラリー・モンゴリアを精力的に主催している山田徹さん。皆昔馴染みで個性的な人たちだ。
キャンプで集まれる日があれば、参加者は立場の違いで同じパリダカでも、篠塚、菅原、尾上さんたち、それぞれが全く違った印象を持っていることが分かると思う。昔、シノケンさんがテネレ砂漠でリタイヤ。プレスカーに便乗して2日掛かりでアガデスに到着したことがあった。その時いった言葉が今でも印象に残る。
「普通の参加者はあんな苦労して走ってるんだ…。ワークスカーが4,5時間で着く距離を、12時間以上もかけて走って来るんだよな」
「そう。ワークスドライバーは半日仕事。プライベートは夜なべ仕事になる」
凄く性能のいいプレスカーに乗ったときには、プライベートカーや菅原さんのトラックを追い抜き、待っていて写真を撮ったこともある。ワークスが参戦を諦めた車を借りたので、改めて当時のプロトタイプ車の凄さを感じた。
昔語りも楽しみだし、尾上さんがジムニーで走り続けているのも面白い。車から見る風景、バイクから見る大地の広がり、トラックからの視点はまた異なるだろうと思う。参加者たちがその日体験したことを、その日のうちに砂漠のベテランたちと話せる機会のあるラリー・モンゴリアは、ダカール・ラリーなどとはまた違った良さがあるはずだ。
車やバイクの送り出しも終わり、参加者たちは7月下旬には日本を発つ。近づくにつれて、これまでのラリーとは異なる興味が湧き久々にときめきを感じることになった。
写真 一枚目:98年ベルサイユ、スタート前 二枚目:ちょっと寝るわ(ニジェールで、98年) 三枚目:ダカール海岸を走る篠塚車(2000年) 四枚目:ダカールでくつろぐ(2000年)
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