お問合せ/住所

何かと不穏な時代に大先輩からの「おい、なんだい!」と、難題山積みの熱きメッセージ、まあSSERの社説のようなものです。
バックナンバー
071 062                
061 062 063 064 065 066 067 068 069 070
051 052 053 054 055 056 057 058 059 060
041 042 043 044 045 046 047 048 049 050
031 032 033 034 035 036 037 038 039 040
021-030               029 030
011-020                  
001-010                  
2009/06/18 (木曜日)

「新型ウィルスと豪華客船」

うっかり風邪は引けません。世界保険機構(W H O )が世界的大流行を認め、メキシコに端を発した豚インフルエンザは、6月半ばで74カ国、3万人以上が感染し140人が死亡しています。豚からのウィルスなので当初“豚”の名がついていましたが、豚肉を食べることとは関係ないので、余計な混乱を避けるため豚は新型と言い換えられました。

一時、日本では騒ぎすぎ、と厚労省や検疫当局をマスコミが非難するようなこともありましたが、どう見ても騒いだのはマスコミで、厚労省は出来るだけの対策をとったまででしょう。

関西方面では観光客が減ったなどという厳しい指摘もありますが、今のところ症状が軽いというだけで、訳の分からない新型ウィルスを放置しておいたら、とんでもないことになりかねません。変種も出来はじめているようで、秋から冬にかけて、たちの悪い「新・新型ウィルス」が登場しないことを願うばかりです。

科学者がテレビで「新型が生まれる可能性は高い」などと言っているのを聞いて、外国のニュースを見たら、カリブ海クルーズの豪華客船が足止めを食らい、カリブ海の島々を楽しもうとしていた1200人を超すクルーズ客は、島に上陸出来ないまま船で足止めだという話がありました。18日のことです。

客船“オーシャンドリーム”はマイアミに本拠を持つツアー会社のスペイン子会社が運行しているようですが、ベネズエラのマルガニタ島に寄港したところ、検疫で3人のクルーから新型インフルエンザ・ウィルスが検出されたため、1200人を超す乗客の上陸が禁止されています。

この船は同じくベネズエラ領のバルバドス、グレネダ両島にも乗員からウィルスが検出されたため乗客は船に留まったままでマルガニタ島へと航行してきたのでした。さらに11人のクルーも風邪の症状があるとされています。

「ウィルスは3人の乗員から検出されている。船は検疫のため24日まで停泊させる」とベネズエラの検疫当局者は語っています。

折角のカリブ海クルーズも“南の島”に上陸できないのでは興ざめです。W H O は「国境閉鎖など過大な措置は執らないよう」付け加えていますが、上陸拒否は国境閉鎖に近いとも思えます。モンゴルやカシュガルへの冒険的なバイク・ツアーを計画しているS S E R や参加予定者は元気者揃いなので心配はないでしょうが、若い人に感染するので気をつけるに超したことはありません。

もっとも、ジジはとうに65歳を超えていますから、菅原義正御大と共に、新型ウィルス感染の懸念はありませんが…。 

No:020

2009/06/28 (木曜日)

「国連職員の死去は気の毒だが、実情も考えよう。」

パキスタン・ペシャワールのパール・コンチネンタル・ホテルでの自爆テロで死亡した外国人の中に、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と国連児童基金(ユニセフ)に勤務するロシア人とフィリピン人の2人が含まれていた。このホテルは外国の大金持ちや要人が多く利用するホテルで、パキスタンでは最高級とされる。

国連職員が亡くなったのは気の毒だが、ユニセフといえばアフリカの飢えた子供の写真などで寄付を訴えている。一泊いくら掛かるかは知らないが、ユニセフが呼びかけている募金のかなりの部分が、職員の高級ホテル宿泊などで消えていることも明白だと思う。こういうことを書くと「現地に出かける職員は大変。警備の問題もある」と非難されることは承知だが、ホテルでの宿泊、飲み食いだけで、いったい何人の飢えた子供に食料を与えられるかを考えて欲しい。

昔、パリダカール・ラリーの取材に何度も出かけたが、U Nと大きく書かれた4輪駆動車数台で砂漠の中までやって来て、パリダカ見物をしている人々を毎年のように見かけた。もっと驚いたのはやはり尾翼に「U N」の文字が浮かび上がるC-130輸送機が、どこかの国に売り払われ、パリダカの資材を輸送していたことだ。明らかに十分に使える現役機だが、国連はサッサと売り払って新しい飛行機を購入したことは明白だ。

日本は国連の権威や力を最も尊重している国だ。アメリカもロシアもキチンと分担金を支払ってはいない。現金払いの最高額は日本なのだが、決定権のある常任理事国になろうとしても、常に拒否されている。日本の国連での立場はイタリアに外交などを任せきっている内陸の小国、サンマリノやアフリカの世界最貧国と同じで、決定権は同じ1票でしかない。日本外交のお粗末さ、お人好しが、金だけは取られるが主張は認められようもない立場に甘んじることも知るべきだろう。

国連は必要だし、大切だとは思うが、世界各国で起こっている人権問題や虐殺、飢餓、部族争い、政治家の汚職などには、何の力も発揮できないのが実情だ。このあたりで日本も対・国連の考え方を見直す必要がありはしないか。アフリカなどから日本を訪れる政治家は、必ず日本の援助を要請する。中には「援助して当然」の言葉を吐く人物もいる。日本と中国を天秤にかけ、援助を迫る人もいる。

しかし、アフリカ諸国の政治家の豪勢な生活や、ときどき明らかになる外国銀行への不正蓄財は、援助をしても実際に助けを求めている人に、多くの人々の好意や政府からの支援資金が届いていないことを証明しているようなものだ。高級ホテルに職員を長期滞在させ「1人1円でアフリカの子供に支援できる」などというキャンペーンの嘘っぽさも垣間見ることが出来る。日本の支援団体も怪しげなものの多いことを知っている。そろそろ世界を見直すこと、好意はそのまま生かされていないことも、日本人は知るときに来ているように思う。

写真はラリー車を見る少年

No:019

2009/06/05 (金曜日)

「大学は学生に夢を持たせるラリー・レイド講座でも作れ」

過保護も極まれり。教育委員会の青少年課長が強姦で無期停学中の大学生の息子を、学童保育指導員に自ら面接して採用を決めていたことが分かりました。学童保育指導員ですよ。酔っぱらった女子大生を飲み屋で人のいない部屋に連れ込み、6人で次々と強姦したそのうちの1人に、小学生の指導などさせたら、今どき成長の早い女の子などを力ずくで強姦するかも知れないじゃないですか。いくら親馬鹿でも自分の立場もわきまえるべきでしょう。息子の“癖の悪さ”を考えなければならないはずです。

京都教育大の女子大生集団強姦事件は、男子学生6人が集団準強姦容疑で逮捕されましたが、恥ずべき強姦事件で息子が無期停学になっていることを知りながら、オヤジの原田茂樹・大阪府茨木市教育委員会青少年課長が応募させ、面接もしていたと言うから、公私混同も良いところ。結果、自分の息子が強姦で無期停学になっているのを恥じることもなく、学童保育の指導員に採用。逮捕される直前まで働かせていたというのだから、馬鹿馬鹿しいを通り越してしまいます。

教育委員会が形骸化し、まともに機能していないことはあちこちで指摘されていますが、強姦男を自分の息子だからといって、自分で面接して学童指導員にするなど、前代未聞、驚天動地です。教育というものをいったいどう考えているのか、それこそ教育委員会の幹部に聞いてみたいところですが、実権を握る課長殿なので、幹部の1人でしょう。聞いても無駄です。もともと教育に携わるようなタマではなかったのです。そうでなければ“強姦息子”などに育て上げるるわけがないし、強姦が分かっていて、よその子供の保育指導員などにするわけもありません。

だいたい強姦で無期停学者に、子供の保育指導などもってのほか。危なくて任せられないと判断するのが、課長たる者の執るべき姿勢です。

「ご迷惑をかけて申し訳ありません」と記者会見で謝ったというのですが、これで済むと思っているのなら、とんでもない間違いです。謝るとか、反省していますとか言うより、課長殿の生き方の問題なのです。こういう身勝手な人は、成人していても子供可愛さで、子離れ出来ないのです。教育に携わる仕事には不適当です。

「停学処分を知りながら採用したのは問題。幹部職員としての認識が甘い」と茨木市教委の八木章治教育長は語っていますが、甘やかし教育のツケは、教育委員会の課長その人に代表されるかもしれません。強姦事件などは時に陰に回って男たちの笑いのネタにもなりますが、教員を養成するのを主とする大学での出来事で、学長は強姦事件と無期停学を「教育的見地」とかでひた隠し。それに加えて教育委員会課長のお粗末です。こんなことでは世の親は安心して教員に子供を預けられませんよ。

「可愛い子には旅をさせろ」といいますが、今の若者には夢がなさ過ぎるような気がします。大学で旅の素晴らしさを教える「ラリー・レイド学科」とか「バイクでたどる荒野の旅・講座」でも作れば、学生も夢を持つようになるかも知れません。

写真は砂漠を往くラクダの隊商

No:018

2009/06/03 (水曜日)

「可はヨシと読む。不可は可にあらずと読む」

学生の親に成績を送付する大学が増えているという話しを聞いて、遙か昔の学生時代を想いだした。成績を親に通知する?そんなことは公立私立を問わず皆無だった。それが今は、大方の私立に加え、国公立大学でも成績を親に通知していないのは少数派になっているそうだ。

驚き、唖然とした。この話を友人にしたら「珍しい話しじゃないな。もうだいぶ前から当たり前になってるんじゃない」と言っている。子供への親の関与が“豊かな時代”の学歴社会を生み出し、誰でも高校進学、多くは大学へと進むようになったのは、いったいいいことなのか、悪いことなのか−。

日本の識字率は世界でもトップ。多くの識者が「信頼出来ない」とするユネスコの世界識字調査を参考までに見ると日本は99.7%となっている。名前が書けない、新聞・雑誌が読めない、という日本人は障害者の一部を除けば皆無だ。

だいたい江戸時代に「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)、「南総里見八犬伝」(滝沢馬琴)が大ヒットすること自体が、庶民の間の識字率の高さを示しているが「読み書きソロバン」は丁稚・女中奉公でも必要とされ、日本の高度な文化を形成してきた。

学歴偏重が昂じ、大学生といっても「勉強したいから」ではなく、親の意向なども加わって「いい会社に就職したい」の経歴作りになってしまい、学業・研究に没頭するのは、一握りの学生だけになってしまっている。情けないことに親は子供の成績を気にし、子供は親に「もっと勉強しなさい」とか言われて、いつまで経っても親離れできない。だいたい、大学の入学式、卒業式に父兄の出席が多くなりすぎ、会場を変更しなければならない大学が幾つもあったことが報じられている。

こうした情況なら子供の成績を「知らせろ」というのは当然で、多くの大学生が親離れしていないし、親も子離れしていないことを証明しているようなものだ。それでいて選挙権年齢を下げろ、など餓鬼に遊びの選挙をさせろ、というようなものではないか。矛盾するのは犯罪を犯した19歳が「少年」として扱われる。責任能力のない少年に、選挙権を与えてどうするつもりなのだろうか。

昔、世界を1人で旅することが若者の間で盛んだった。シベリア鉄道で1週間もかけてヨーロッパへ渡り、アルバイトをしながら旅を続けた友人もいる。皿洗いが手近なものだったので、そういうアルバイトで食いつなぎながら滞在する若者を「タワシ」と呼んだ。食器をタワシで洗うことから来ている。

もうその時代の人たちは70歳に近いが、住みついてキチンと仕事をしてきた友人も何人かいる。

それに異常なのはマスコミがいかにも当然のように「大学3年から就職活動が始まる」などと平気で書いていることだ。普通の大学は2年間、一般教養課程がある。高校までのやり直しといってもいい。その後の2年間で大学生としての本当の勉強が始まるのだが、その時にはもう就職活動で、多くの学生は勉強どころではない。

海外へ冒険的な旅に出る若者が珍しいくらいになり、怖いこともなく、安心していられる国内で満足な人が増えていると聞く。携帯電話片手に、遊び惚ける“幼稚な大学生”には、親の保護が必要かも知れないが、いつまでも自立できず、中大の事件を見るまでもなく、自分のお粗末さを反省するどころか、逆恨みだ。企業も大学という名の“遊園地出身”に意味を認めることなど止めて、本当にやる気のある人をキチンと雇用する社会になって欲しいものだ。そのうち、入社式まで親が参列したい、といい出しかねない。

少子化時代に無理をしてでも大学へ行かせている親が、子供の情況を知りたい心情は理解できる。しかしこれでは甘えを増幅させるばかりで、親離れ・子離れは困難だ。子供の頃からどうしたら自立心を確立させるのか、英語教育などより余程大切だと思うのだが…。

写真はジンバブエの海岸でサッカーをする少年 

No:017

2009/06/01 (火曜日)

「携帯馬鹿に考える暇なし」

先日、軽い山歩きのグループに誘われて綺麗な滝を見てきました。年齢は様々で10代後半から70歳超まで約20人ほどいました。群馬県の山奥ですから木々の若葉はまだ萌葱色で、中にはやっと芽を出したばかりの木もあるし、咲き始めたツツジもありました。

「いいネー。のんびり歩くとなんだか元気になるよ」
「こう言うのを癒しというのでしょうね」

年配者は口々に言います。山歩きをするくらいですから若い人もそれには同調しますが、ひと休みしたときの行は全く異なります。

「ひと休みしよう」と引率者が言った途端に、3人ほどの若者が携帯電話を取り出し、メールを見ています。

「ここまで来てメール見るの?」
「ええ、いつも見てますから誰かから来てると思うんで…」
「そんなに忙しい連絡があるの?」
「別に…。ただ見ておくだけです」

話しはこれで終わりました。しかし、次の休みの時には携帯電話の通話圏外でした。

「ここ、圏外だ」
「圏外だと困るの?」
「いや、特に困りません」

30歳以下の人は休憩したときに、リーダーの話す植物の種や育ち方などより、まずは携帯電話が気になるようでした。

異常な世界になっています。都会の駅のホームでは大半の人が携帯電話の蓋を開いています。電車に乗り込むときにちょっと蓋を閉じますが、座席に座ると申し合わせたように携帯電話です。どうしてこんなことになってしまったのでしょう。つい20年前頃まで携帯電話はごく一部の人のものでした。だからといって生活に不便を感じることはありませんでした。

それが小型化し、接続できる範囲も広がると一気に普及し、持たない人の方が珍しいくらいなのです。

そういえば衛星電話が一般にも使えるようになって、砂漠などでの仕事も忙しくなったことを思い出しました。1980年代の終わり頃まで、サハラ砂漠を走るパリ〜ダカール・ラリーの取材は気楽なものでした。初めは電話などありません。もちろんインターネットなども考えの外です。たまたま記事や写真を送る仕事をしていましたが、写真はフィルム撮影で5日に一度くらい砂漠の飛行場からパリへ飛ぶ連絡便に積み、パリから日本へと空輸です。

記事の方も休息日に主催者が用意してくれる電話で送るだけ。鉛筆1本、カメラ2台、ノート1冊、あとは生活用具だけです。連載記事などを帰国してから書けばいいので、砂漠の旅はゆったりとしたものでした。初期には自分で車を運転してラリーを追い、現地で燃料を見つけ、食い物までオアシスで探す状態でした。

1900年代の半ばからは、主催者のオフィシャル機からインターネットが通じるようになり、写真や記事を送るのは便利になりましたが、仕事量は倍増どころではありません。情報伝達の発達と併せるように、取材者の移動も飛行機に集約され、その飛行機も合理化?でしょうか、キャンプ地をピストン輸送するようになって、遅い便に組み込まれた取材者は、トップグループが次のキャンプ地に到着する時に、まだ前のキャンプ地でピストン便を待っているありさまです。

合理的な運営、通信の発達は“どこでもメール”です。ゆっくりと自分を見つめる時間が消えていきます。全員が携帯電話を持ち、メールをするようになると、便利ではあっても考えることを忘れ、人々は「馬鹿になる」かも知れません。S S E R の主宰する今年のレイド・モンゴルに出かけるつもりですが、昔のパリダカのように、心に残る旅にしたいと思っています。

No:016

2009/05/26 (火曜日)

「日本の“無・知識人”の横行」

最近、医療・福祉問題が盛んに語られている。新インフルエンザに関連して「病院が足りない」「日本の防疫体勢は危ない」などに始まり、福祉切り捨て論や医療費の自己負担分の増額はけしからん、なども騒がれている。 しかし、サロン代わりに朝から病院へ行き、歳をとれば少しは、痛い・かゆい・不具合は出るのが普通なのに、老人の知り合い同士が元気よく話をしている待合室風景は珍しくない。しかも、老人の多くは幾つもの科で受診する。勢い時間が掛かり、働き盛りの人が具合が悪いからと、病院へ行くと半日、1日がかりになってしまい、仕事にも差し支えるとこぼしているのも待合室で聞いている。

「最近の若い者は…」と言うのは、遙か昔から老人の決まり文句だが、今や老人にも若い者に負けず、いや、それ以上に、他人を思いやる心を失っている人が増えているように思う。

それに輪をかけるのが、マスコミに登場する評論家とか、知識人という人種。多くはすぐに欧米の例を持ち出し、日本と比較していかにも日本が悪いように語るが、この人たちはいったい外国で何を見てきているのだろうか。

昨日もテレビを観ていたら、イギリスでは医療が無料だし、スウェーデンの老人福祉は日本の比ではない−、などと得意げに“いいとこ取り”論を展開する“モノ知らず”がいた。どうしてイギリスの医療制度が日本より優れているといえるのだろうか。

もう少し調べればすぐ分かるのだが、無料というのは形ばかりで、実際に健康保険が使える病院は減る一方。結果として健康保険の使えない病院や医院へ行くことになる。金がないひとは受診を諦めざるを得ない。

アメリカも同様で、盲腸の手術で250万円も請求されたり、心臓手術になると億の単位になることもあり、大きな病気をするとそれまでの生活を維持することなど不可能になる、とアメリカに住む友人は強調していた。

カナダにいる知人は、親知らずが痛んだので歯科医へ行ったら「全身麻酔をする」と言われ、治療代も莫大。仰天して止め、休暇を取って日本の歯科医で抜歯してもらっている。

ジジ自身、ギリシャの海で怪我をし、足が腫れ上がったことがある。病院へ行ったら無料だったが消毒薬、乾燥薬を吹き付けるだけ。腫れが引くどころか、悪くなる一方でもう1ヵ所、こちらは個人医院へ出向いたが、やはりシップをしてくれただけだった。

帰国後、病院の外科へ行ったら「中に小さい石が入っています。このまま長期間放置しておくと、最悪は足の切断です」と言われた。麻酔もせずに腫れ上がった脚から石を穿り出してくれたが、2日もするとケロリと治った。保険なので3割負担だった。

誤診も時に大々的に報じられるが、何百億もの細胞で構成される人体の病気を全て間違いなく判断するのは不可能だ。日本の医療技術は平均的には、世界に突出して優れていると思っている。

老人福祉に関しても、スウェーデンの老人だけの街は素晴らしい−、などとほざく知識人と称する無知識人がいた。その背後に消費税をおしなべて25%も取っている現実がある。日本の5倍だ。これには触れない。

それに視察したのはモデルとなる街だろう。何十年も前に作られた“老人村”がゴーストタウン化し、何とも空しい情況にあることも、しっかりと見て欲しかった。

どうして日本の知識人と称する人たちは、余所の国を表面的に見て、形式だけの良さを挙げ、日本をこき下ろすのだろうか。アメリカの医療が発達しているといっても、超・高給取りか、資産家でなければそういう医療は受けられないことは、オバマ大統領が「早急に医療保険制度改革に取り組む」という姿勢からも明白だ。「できっこない」と冷ややかな声もあるが…。

何でも日本を悪く言えば、インテリだとか知識人だとか「思ってくれる」考え方はいい加減に捨てて欲しい。格差も論議されるが、日本ほど格差の少ない国も珍しい。マスコミでモノを言う人々の中に、あまりにも日本をこき下ろす“無・知識人”が多すぎる。

写真

一枚目:ギリシャ・ペロポネソス半島トロ海岸
二枚目:ギリシャ・エギナ島 

No:015

2009/05/20 (水曜日)

「除菌流行の行く末」

新型インフルエンザが日本国内で勢いを増している。世界で最も厳しい水際の防疫態勢を取ったのだが、いったん侵入されると、日本の若者の脆弱性が暴露された格好だ。もっとも日本は組織整備が進んでいて、一部報道では連絡が悪い、と指摘はされているが、世界を見渡すと安全保障に大切な防諜以外の分野では、世界のトップだと言っても過言ではない。

だから感染者が次々と分かることにもつながるが、普通なら体力の弱い老人に感染者が殆どいないことが奇妙だ。マスコミも医学会も、政府も理由は分かっているのだろうと思う。それは日本人の現代病といってもいい恐ろしい共通現象があるからだろう。

以前、細菌研究者が話していたのを思い出す。その人は痩せ願望、除菌、清潔さに関する神経過敏さを指摘。

「日本人の病気に対する抵抗力は確実に減っている。仮に世界的な疫病の流行があったら、もっとも被害を受けるのは日本だろう」 新インフルエンザが流行するずっと前の話なので、たいして気にもしていなかったが、今の事態を見事に言い当てている。身の回りを清潔にするのはいいことだし、食品は衛生管理が行き届いていた方がいい。

しかし、病気に対しては「自分で自分を守る」しか方法はない。マスク、手洗い、うがい、外出を控える…、様々な対策をし、同じような行動を取っていても、罹る人と罹らない人がいる。あまりにも清潔さや快適さを強調する余り、幼少の頃から病原菌に対する抵抗力をつける機会を失っているのではないか?

あくまで個人的な考えだが、生物は雑菌とともに生きていて、雑菌まみれで育つうちに様々な抗体を作り上げ、抵抗力をつけていく。母から子へ、周囲から子へと時には“伝染”するが、母親から引き継いだ抗体が、子供を守り子供独自の抗体を形成して行く。

映画「寅さん」の台詞に「おけつの回りはクソだらけ」の口上も流れたが、言い得て妙で雑菌の宝庫が幼児に自然と抗体を作ることにもなる。何でも口に入れてみるのも、幼児時代の“生きるための勉強”かも知れない。

おしめは強い吸水性を持ち、殺菌作用も併せ持つ。幼児は快適だから、むずがることもない。親は楽、子は快適で4歳になってもおしめを着けている昔では信じられない事態も珍しくない。いつの間にか“除菌産業”が出来上がり、紫外線、杉花粉、排ガス…、と避けようもないものを避ける薬品や装備が作られ、杉花粉情報まで出る始末だ。

私の子供の頃は、杉の花粉が飛ぶ頃になると「杉鉄砲」というオモチャが流行った。細い篠竹を筒にし、竹ヒゴで杉の玉=弾=(花や実)を押し込み、先端付近で止める。次にまた玉を詰め込み一気に押し込むと、パチンと前の杉玉が飛び出す。毎年、巡ってくるシーズンの遊びだった。

今はオモチャやゲーム機が沢山あり、杉鉄砲で遊んでいる子供は見かけない。杉花粉にまみれて遊んでいても、花粉症に罹った子供はいなかった。あまりにも過保護で清潔さに対する神経の過敏さを当たり前にしてしまったのが今の日本だと思う。

新型インフルエンザは幸い致死率は低い。この機会に日本人、ことに若い人々にどうしたら病気に対する抵抗力を増すことが出来るのか、政府も医学会も教育界も家庭でも、考え直すときだろう。

除菌・除菌に明け暮れているうちに、自分自身が細菌に“除菌”されてしまわないように…。

写真
一枚目:木道の間に咲くミズバショウ(志賀高原)
二枚目:新芽を吹いたカラ松

No:014

2009/05/15 (金曜日)

釣り人のマナーの悪さが言われて久しいが、魂消た出来事に群馬の山奥の村で出くわした。知り合いの村人が話す。

「連休に東京から来た釣り人が、5、60匹もイワナを釣って来たぞ。かなりデカイし、入れ食いだったそうだよ」

そんな川があるとは思えない。細かく様子を教えろと言ったら説明を始めたが、話す方も、聞く方もなんだか嫌になるようなことだった。

「○○川の堤防の先に小さな沢が流れ込んでる。あのあたりに本流から下ってきたイワナが集まるよな。そこで撒き餌をして釣ったんだ」

渓流釣りで撒き餌などは普通出来ないが、流れの止まった小さなダム状の場所だ。イクラをたっぷりと持ち込み、足場のいい場所から投げ込んでイワナを集めた。そこで大漁旗が揚がったわけ。大水が出たとき幾つもの沢から下ってきたイワナは一時、ダムに留まるが、また川を上っていく。

「川の撒き餌なんて聞いたこともないな」

「魂消たよ。あそこで撒き餌をすりゃ、釣れるわな」

子供の躾がなってない、とよく言われるが、大人もそれ以上だ。放流間もない稚魚を何十匹も釣り上げ、クーラーボックスに入れて得意になっているいい歳の釣り人にも会ったことがある。

「そんな小さいのじゃ、持って帰ってもしょうがないでしょう」と言うと「ハラを出して天ぷらにするとうまい。沢山釣るから来るたびに帰ってからが大変だ」には、話をするのも馬鹿馬鹿しくなった。

群馬や長野の渓流は場所によって20cm、15cm以下は釣り上げても放流する決まりだ。あちこちに立て札があるので知らないはずはないし、釣り券を買っていれば、注意書きも渡される仕組みだ。

監視の目を盗んで放流間もない6、7cmの稚魚を釣り、得意になって釣果を見せるのだから呆れる。おそらく入漁券など買ってはいないだろう。

渓流釣りは深い谷間を歩く。滝も滑りやすい岩場もある。そういう厳しい環境に棲むイワナと、大げさに言えば対峙するのが、渓流釣りの醍醐味だと思っている。釣れるに越したことはないが、いい型のイワナを5匹も揚げれば満足というものだろう。

海釣りでも堤防にコマセのカスや釣り人の残したゴミが問題になっているが、渓流でも連休後には、コンビニの弁当箱が袋とともに捨てられている。渓流を歩くにはある程度、沢歩きの心得も必要だが、そういう人までが淀みにイクラの撒き餌をして魚を集めて釣り上げたり、数で来いで稚魚を持ち帰る。挙げ句の果ては、融けも腐りもしない合成樹脂の袋や弁当箱を投げ捨てて帰って行く。釣り人のマナーの悪さを嘆く方が、今の時代に合ってないのかも知れない。

昨年、大きなイワナを釣ったのでDakar Rallyの名物男、菅原義正さんに知らせたら、モンゴル人の友人が日本では釧路湿原にしか生存していないと言われる“幻の魚”巨大なイトウをゴロゴロと釣り上げた写真を送ってきた。

「モンゴルへ行ったら、ちょっとだけでもイトウ釣りをやってみたいな」とSSERの山田徹さんに話したら「中国人がイトウを高く買うことが分かり、今は乱獲で絶滅するのではないかと心配されていますよ」と言っていた。商売や自分のためには“何でもあり”の世の中は、今に始まったことではないが、2000年辺りを境に、悪が急加速しているようにも思う。

自然に親しみ、とけ込み、より楽しむために、それぞれがどうすべきか、考えるときのようにも思っている。環境保護のかけ声が上滑りし、環境問題で大儲けする輩まで出現している。渓流で足元を確かめ、糸が枝に絡むのを警戒しながら、イワナ釣りをしていて、情けない世情に思い至ることは、いかにも情けない。

写真
一枚目:渓流でイワナを追う。
二枚目:釣り上げた大岩魚。靴と比べてください。
三枚目:最後は大どんぶりで骨酒です。

No:013


2009/05/07 (木曜日)

 

「尻蹴り小僧の敗訴」

子供が教師に胸をつかまれて壁に押しつけられ叱られた―。それを訴えた母親が何を血迷ったか、損害賠償を請求した熊本の事件は、最高裁まで争われ、母親の馬鹿げた請求は退けられました。子を持つ親は考えてみる必要があります。自分の餓鬼は優れているのか、自分はしっかりと子供を育てているのか、裁判のよって来たるところや、訴えの内容をもっとえぐり出して欲しいくらいです。

7年前に小学校2年生だったと言うので、今は中学3年か高校1年になっているでしょうが、その間、1審、2審があり親子の会話も裁判に触れることは多かったと思えます。訴えの原点を思い返すことはなかったのでしょうか。男の子は通路を通る女の子を足で蹴っていたそうです。気づいた男性教師が子供を注意し、立ち去ろうとすると後ろから駆け寄り、教師の尻を蹴って逃げたのです。

つかまえて説教するのは教師の義務でしょう。胸をつかまえて壁に押しつけたといっても、つかまえなければ逃げるでしょう。そこで昔のように、往復ビンタ、タンコブの出来るほどのげんこつを見舞ったのなら、行き過ぎといえるかも知れませんが、ただ押しつけただけです。誰が考えたって教育の一環でしょう。

多くの親が子供の躾を放棄し、ウチの子に限って…、と思っているうちに、親の手に負えなくなってしまいます。女の子の中には中学生で小遣い稼ぎの売春婦に成り下がり、女子高生買春など珍しくもありません。母親べったりの男の子は覇気がなく、勉強はするかも知れませんが、何を考えているのか分からない子供も増えました。

だいたい、胸をつかまえられて壁に押しつけられただけで、民事訴訟を起こすこと自体が異常です。邪推すれば過保護の母親が怒るのに調子を合わせた弁護士が“嗾(けしかけ)た”のかも知れない、などと考えたくもなります。弁護士は本来、何でも訴訟に勝てばいい、という教育を受けているとは思いません。非常識な訴えなら、むしろ諭すのも仕事でしょう。だからこそ弁護士、医師、教師などは、かつて尊敬される職業でもあったのです。

今や日本の弁護士もアメリカ並みになり、事件が起こると、いかに早く被害者のところへ駆けつけ、契約するかが、まず職業としての第1ラウンド、などと揶揄されるアメリカ型になろうとしています。上手に陪審員を説得して勝訴すれば分け前が入ります。日本も陪審制度が導入されますが、これは社会・世の中の常識知らずの裁判官が増えたことと無関係ではありません。

1審、2審は母親が勝っています。仮に最高裁が「体罰ではない」と裁定しなければ、教師は子供の体に指一本、触れるだけで過保護な“馬鹿親”に訴えられ、敗訴する道へとつながりかねなかったのです。

写真はザンビアの「リビングストン・メモリアル」です。主要道から20キロほど入ったジャングルの中の空き地に碑があり、近くに粗末な小学校がありました。

No:012

2009/04/27 (月曜日)

「豚インフルエンザと本末転倒」

聞いたこともなかった「豚インフルエンザ」がメキシコで流行し、100人以上が死亡、さらに拡大する怖れがあると騒がれています。鳥インフルエンザの感染が“小康状態”でひとまず安心というところでしたが、豚インフルエンザに効くワクチンや抗体は今のところなく、タミフルなどでその場を凌ぐのが精一杯のようです。

ヨーロッパを旅していると、都市の広場にペストの犠牲者を悼む碑を見かけます。1347年から53年にかけて猛威を振るったペストは、当時のヨーロッパ全人口の3分の1が死亡したといわれるほどです。豚インフルエンザがどの程度、酷い症状を発症させ、死亡率がどのくらいかなども、分からないのが実情です。気をつけるに超したことはありません。

航空機の発達で太平洋を隔てたメキシコといっても、毎日旅客機は飛来します。日本からの観光客も結構、脳天気に出かけています。さすがに大手旅行代理店はメキシコツアーを中止していますが、これまで人に感染したことのない豚・発の病気に近づく可能性が強ければ、計画を立てているから、といっても、旅先の変更くらいはした方が良いかもしれません。

しかし、あまり神経質になるのも考え物です。大手牛丼チェーンがメキシコ産の豚肉を使った「豚テキ定食」を一時中止すると発表しています。石破農水大臣は「輸入肉は完全に殺菌されているし、よく熱を加えて調理すれば問題ない」と話しています。危ない、と聞くと何でも見境なく危険だ、と思いこむ精神構造も、今の日本でちょっと困った風潮です。

汚れや臭いに関しても、異常に神経を尖らす人たちが増えました。コマーシャルの影響かも知れませんが、消臭・殺菌ばやりです。赤ん坊のおしめも殺菌・消臭で水分の吸収がよく「赤ちゃんは快適」と宣伝されています。その通りでしょうが、快適のあまり、おしめ年齢が高くなっていると聞きます。同時に消臭・殺菌で雑菌に対する抗体も形成されにくい、とも聞きました。一時代前の子供たちは、汚れるのが当たり前で、泥まみれで遊んだものです。そういう環境で、抵抗力も養われたのでしょう。人が病気に対して抵抗力を持つのは、人類の病気との闘った長い歴史がD N A に組み込まれているからです。

汚いより清潔が良いのは分かりますが、行き過ぎは神経過敏になるばかりです。それでいて、奇妙な光景には毎日のように出くわします。スーパーやデパートなどの食材売り場です。調理して食べるものなら良いでしょうが、パン、揚げ物、漬け物などが人でごった返す場所に裸で並べられています。咳で唾も飛ぶでしょう。いくら綺麗に掃除がしてあっても、大勢の人はホコリを巻き立てます。マスクをしたご婦人が、そういうものを平気で買うのです。パンや揚げ物を洗って食べる人はいません。

こういう衛生思想では豚発のインフルエンザにキチンと対処は出来ないでしょう。形ばかりの「衛生的」では、却って不衛生、本末転倒です。

写真はチェコ・テルチェ(世界遺産)の広場に立つペスト犠牲者追悼の碑

No:011

 
 
バックナンバー
071 062                
061 062 063 064 065 066 067 068 069 070
051 052 053 054 055 056 057 058 059 060
041 042 043 044 045 046 047 048 049 050
031 032 033 034 035 036 037 038 039 040
021-030               029 030
011-020                  
001-010