青森の津軽を巡ってきました。龍飛岬は有名ですが、津軽半島そのものは、太宰治が「津軽」で書いていることが知られているくらいでしょう。今は鰺ヶ沢の犬「わさお」が有名です。
今回の旅には意外な面白さがありました。津軽半島の陸奥湾沿いに北上したのですが、そこは“松前街道”の名前が付いています。昔、北海道へ渡るには津軽半島を北上し、海峡を渡って松前へと行ったのでしょう。
源義経が北海道へ渡ったと言う伝説は、根強く残っています。三厩(みんまや)の港近くには、ちょっとした公園があり「義経渡道の地」の柱とともに、義経・静御前の石碑があります。三厩の地名も義経にちなみます。衣川で自刃したと言うのは間違いで、そう見せかけて義経は北へ逃れ、三厩まで到着しました。海が荒れて北海道へ渡れず、困惑しているときに神のお告げです。
翌日には3頭の龍馬が岩の穴につながれていたのです。その馬に乗って義経は北海道へ渡ったそうです。日高の平取には義経神社があります。話はつながるようになっているのです。そして公園にある大きな岩には、3つの穴があり、そこに3頭の龍馬がつながれていたわけです。義経はその後、ジンギス・ハーンになるのですから、ラリー・モンゴリアに出かけた際に、日本の伝説を話してあげたら、喜ぶ人がいるかも知れません。
龍飛から日本海沿いに南下すると十三湖があります。シジミの産地として有名ですが、ここには室町時代に、長崎、堺と並ぶ交易の港があったと言うのです。こちらは義経と異なり、国の民俗学関係や富山大学が調査をして、信じられないようなことですが20万人規模の大きな都市があったことを実証しています。
日本の教科書には出ていません。教わったこともないのですが、中国や朝鮮と交易していたというのです。まさか東北の外れ、津軽にそんな港があるとは思ってもいませんでした。十三湊(とさみなと)と言うのがその都市です。ところがこの港町は室町時代の1340年の大津波で全滅したのです。
当時、ここを支配していた安東氏は日本海を乗り切れる700隻もの外洋船を持っていて、津波の時には約540隻、2000人ほどが交易に出ていたと言います。母港を失い、町を失った船乗りは、日本の各地に散らばって住んだということです。その中には元寇の役でモンゴル軍を迎え撃った、九州の水軍になっていた人たちもあったそうです。
ちょうど東日本大震災の後で、津波の凄さを印象づけられたばかりなので、十三湖は津波の影響で埋まり、その後も港としての機能を回復することは出来なかったという話がよく分かりました。
旅にはいつも新しい発見があります。だから旅は止められないのでしょう。ラリー・モンゴリアも近づきました。参加者はそれぞれが、新しい発見をしながら、モンゴルを楽しむことでしょう。
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